2007年2月14日 (水)

「権利」の意味と防塵ネット

 教基法が改悪されて本当にがっくりきたが、同時にこの国の民の「権利意識」のなさに少しがっくりときた。私は高校の同級生のホームページを持っている。そこの掲示板に今回の教基法改悪の危機状態の様子を投稿したが、ふだんは饒舌な掲示板も平和の問題や教育基本法のこと、日本の将来への危機感などには沈黙だった。私が、いや私達関係者だけが危機意識を持って空回りをしていたのかと思えるほどだった。
 

 しかし、日本の国民が主権者としての教育をされていない歴史を本「証言」 太田 尭を読んで納得した。明治以来の脱亜入欧で天皇の臣民として教育されてきた社会では、なかなか自分の主張はできない。みんなに合わす国風は今も健在(?)だと言う。
 日本では、個人主義は利己主義と同じという土壌がある。自己主張は自尊心が高いと嫌がられる。自尊心が高いことはいけないことと思われている。また日本では地域共同体が、福祉の役割も果してきた。だから、自分を周りに合わすことが生きる無難な道であった。
 しかしアメリカで子育てをした友人は欧米では、きちんと自己主張できるように育てるという。親も学校もそうだと言う。人間らしく暮らすことは、一部の人のものでない。私達国民も人間らしく暮らしたい。国や国民という立場は違っても人間らしく暮らしたいという思いは同じだ。それが「権利」なのだ。立場は違っても当たり前のこと、それが「権利」という意味なのだ。それはヨーロッパの市民革命から認められてきた人類の遺産だ。
 新自由主義が横行するなか、私達は黙っていないで、志をともにする人々ときちんと交渉する勇気を持たなければならない。日本の歴史を選ぶのは、国民である。国民が賢くならなければならない。若い時に読んだ中国の魯迅の小説「阿Q世伝」のような、無知であって、弱いものには強く、強い者には弱い国民を大量に作り出されないよう、本当のことを知る賢い国民が増えなければ私達の幸せはないと強く思った。
 

 2件隣に新築の家が建とうとしている。しかし防塵ネットが張っていないため、木屑が北風に乗ってたくさんとんでくる。そのためお隣は、小さい子どもがいるにもかかわらず洗濯物も干せない状態であった。私の方は少しくらいでも干していたが、一階の駐車場の大事な車が木屑で埋まってしまいそうだった。それを見て夫が自分の休みの日の朝、現場監督に防塵ネットを張るように要求したがそのままだった。夕方、再び要求したら翌日から張ってくれた。この時ふと思った。
  人々が権利という意味を知っていたならば、尼崎などの住宅街の真ん中のアスベストの工場から、日々家のなかまで真っ白になってしまう状態に抗議していたかもしれない。アスベストが危険とわからなくても、自分の生活がその工場のため汚れで振り回されるのは、立場は違ってもいやである。みんなが抗議したならば、アスベスト(石綿)による工場付近の住民の健康破壊は防げたかもしれないとふと思った。 K子

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