2009年3月14日 (土)

口伝、手まり歌などを紹介します!

顔知らぬ祖母⇒父(1900年生まれ)⇒私(1936年生まれ)⇒孫(1994年生まれ)
1.一もく、二もく
 一もく、二もく、三もく、さくら。さくらの枝に、とんびの首と、からすの首を、ねじ上げておいて、お殿様に見せた。お殿様は、お馬(んま)。槍の先(さき)ゃ、すってんどん。すってんどんの道を、尾のある鳥と、尾のない鳥が、あっちへぶらり、こっちへぶらり。ぶらつくところを、豆腐(とふ)屋の婆(ばば)さん、機(はた)から下りて、杓(しゃく)もっておさえた。その杓はどうした。つい火にくべた。その火はどうした。つい灰になった。その灰はどうした。つい麦かけた。その麦(むぎ)ゃ、どうした。雁(がん)が来て、食うた。その雁はどうした。山こえ、谷こえ、がんがら松に、止まった。

2.向こうの山を
 向こうの山を、さるが三匹通る。どのさるも、物知らず。いっちの中の子ざるが、ようもの知って、日本国(ごく)中(じゅう)歩いて、銭(ぜに)三文ひろて、いわしを三匹買うたれば、煮(にい)て食うても、塩辛し、焼いて食うても、塩辛し。あんまり塩がかあろうて、前の川へ飛び込んで、水を三杯飲(のん)だれば、あんまり腹が太(ふう)とうて、鐘撞堂へ上がると、鐘撞堂が、揺(ゆうるい)で、大きいやつあ、泣きゃる。小(こ)まいやつあ、笑(わら)やある。泣きゃんな、笑やんな。笑やんな、泣きゃんな。

3.襖の開け閉めの作法
 「上(じょう)すらり、中かったりの、下三寸、開けて閉めぬは、下下の下の助」
 音を立てずに、すらりと開閉するのが、上。かたんと音をたてるのが、中。隙間を三寸ほど残すのが、下。閉め忘れが、下下の下。

4.蜀山人の狂歌
 お話「店の前で、“おかる”という娘が水撒きをしていると、水が、通りがかった足軽の足にかかった。足軽は怒り『手打ちにする』と息巻いた。店のものが謝っても許さない。通りがかった蜀山人が、狂歌を読むから許すようにと申し出た。それは
『行きかかる、来かかる、足に、水かかる、足軽怒(いか)る、“おかる”こわがる』
足軽は許した。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月24日 (月)

プライドが高い男の子

やんちゃな幼児のだだっこぶり
  2種類の紙トンボがあった。ある4歳くらいの男の子がそれらの紙トンボを飛ばした。1種類の方がうまく飛ばなかった。もう一度やったが失敗した。だから、彼はもう試すのを嫌がった。それを見てある人が、
「結構、プライドが高いねんね。」
とほほえみながら言った。
  私は直感的に違う!と思った。彼はイヤと素直に自分のありのままの気持ちを表したにすぎない。彼の意見表明だ。誇り高い自分ありたいと思ったわけでない。失敗して自分の気持ちが傷つけられると思ったわけでないと思った。でもよく世間でそのように使われる。その根底にはプライドが高いのはいけないという日本人のいましめのような気持ちがこもっている。またそのように決めつける大人の言葉が子どもの心を傷つけると思った。

 では私はどんな風に対応したでしょうか?
  私は自分の思いを口にし、ありのままの自分である彼がいとおしくておかしくてたまらなかった。この講座に来た頃は赤いキャラクターの顔の輪郭線がうまくつながらなくて、むしろ赤ちゃんに近い方だった。1年経つと目鼻立ちがわかる顔を描けるようになっている。今、イヤと自分の思いを素直さに出すしぐさは笑いを誘わずにおられない。ここに彼が、ありのままの自分を出せるのはそれを受け止めてくれる大人達、私やお母さんを含めスタッフがいるからでしょう。現に彼がやる気になるまで待っている講師さんがいるからです。
   以前、商店街で父親にだっこされ、彼は父親に頬を寄せ安心してスキンシップを楽しんでいる姿を見たことがある。彼の母親は寄り添うように信頼して一緒に歩いていた。母親がいつも彼に指示的な口調で話しかけないのは、きっとそこからきているのだと思った。ありのままの自分を出している彼をかわいいと思うのは、十分に両親にありのままを愛されているからでしょう。

 ありのままの自分を受けいれてくれる人間関係があることが、自律的・社会的主体としてきちんと成長発達する保障をするのに不可欠です。泣いたり悪さをしたりといったさまざまな行動に対して無条件かつ継続的に、今日の彼の意見表明には「うまく飛ばないのだね。いやだね。」と肯定的にかつ誠実に対応してくれる親や大人との関係がいるのです。私は彼が興味を持ったおもちゃと一緒に遊びました。彼が自分の心と折り合いをつけるのを待つのも大事です。その後講師さんの呼びかけに彼は苦手な方の紙飛行機も作りました。そういう体験を十分にして子どもは「ここにいていいんだ。」「自分は大切なんだ。」という安心感や自己肯定感を持てるようになり、自分を誇りに思えるようになると思います。十分にそのような体験をした人は他人の心に共感できる大人になるのです。それをまだ幼い彼にプライドが高いので傷つくことを避けていると思うことは、大人の勝手な解釈だと私は思うのです。

「プライド」が高いのは、いけない?
 「プライド」って何だろう。私はインターネットで調べてみたが納得いくものがなかった。英語の辞書の「自尊心」を引いてみた。二つあった。一つにはセルフーリスペクトself-respect「自分を尊敬する」という直訳になる。自己肯定感に似ていると思った。もう一つは、プライドpride で「自慢する」「誇りにする」という意味です。誇りは自己肯定感も含むと思った。
  つまり「自尊心」にはselfーrespect という「自分を尊敬する心」(自尊心に似た意味)の意味とprideという「自慢する、誇り」という意味があるのです。おそらく人権という歴史からいって、人は生まれながらに基本的人権があり、「自尊心」が基本になっている欧米の歴史と、世間に合わせる没自我の日本の文化の違いが、「自尊心」をpride、自慢すると否定的イメージの方に定着させていったのでないかと思います。きちんとしたことを知っている人、教えてください。

  良きにつけ悪しきにつけ没自我で生きられた封建制の残った日本の地域社会の人々は、今日、成果主義の市場主義社会のなかで、「個」が直接社会にさらされるようになったと思います。これに対応する人格を育てる環境は遅れています。一方で自尊心=プライドが高いことは自己主張し、自慢し他人のことを考えない悪いという日本文化があり、一方で競争と選別の教育環境があり、親の価値観に合わせている子ども達は、ありのままの自分でいられません。自己肯定感も自我も確立できないでいる実際ではないでしょうか。
  欧米の文化では、幼少から自我の確立のため自分の意見をきちんと述べることが大事にされると言います。アメリカに夫とともに赴任した同級生が、向こうの方に意見を求められて意見を述べると、
「それは一般的な考えでしょう。あなたの意見を述べてください。」
と言われて当惑したと言いました。これは子どもだけでなく日本の大人が、自立した個でないことが多いということにつながると私は思います。

  本来、プライドは高いということは、他人と共感する心を持ち合わせている上に成り立っていて、十分自己肯定感を持ち、自分を誇りに思っているとてもいいことだと思うのです。そしてそれは人間関係の中で育てられるものだと思うのです。

 言った人の本意と違うことを感じてかもしれないけれど、何気ない会話のなかに人権がひそんでいると思った日でした。  K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 6日 (金)

乳幼児は、母親の心を読みとることができる

   日曜日、毎日テレビの「動物奇想天外」が意外に面白い。いつも自然界の動物達が自然に調和し、また過酷さに耐えて生き抜く姿に感動させられる。そんな動物達の環境を簡単に壊すのが人間であるのにいつも愕然とさせられる。
   ある日、人間の子どもとチンパンジーの違いを見せつけられた面白い実験が二つあった。

《渡れない橋でも、お母さんの顔つきをみて渡る1歳の赤ちゃん》
   一つ目、人間の1歳くらいの乳幼児は、大人の心を読みとる能力を持っていることを示す実験であった。実験の場の設定はある二つの高い床があり、それを透明なアクリルの板でブリッジにして渡れるようにしてある。透明であるけれども少し大きい3歳児ぐらいになると渡れるとわかるようなつくりである。
   ハイハイができる赤ちゃんを一方の床の上に置く。一方お母さんは乳児からみて渡った橋の向こうの床にいる。お母さんのいる所へ行こうと赤ちゃんは、透明になっている橋のそばまで行く。でもブリッジは透明なので渡れないと思い、止まります。赤ちゃんはお母さんの顔を見る。お母さんが心配そうな顔をすると渡らない。大丈夫、渡れると笑顔を見せると渡れると判断するのです。それに比べてチンパンジーの子は自分で確かめて渡る。生まれて同じくらいの年齢の赤ちゃんはチンパンジーの方が賢いのです。これは自然界に住んでいるため、人間より早く自立して危険を察知しなければならないためこの時期としては人間の子よりも発達が早いそうです。納得しました。

《赤ちゃんの成長には、お母さんへの無条件の安心と信頼が必要》
   この実験は、1歳ぐらいまでの人間の赤ちゃんでもお母さんの表情から心を読みとることができる、賢いという実験である。私はそこに赤ちゃんの無条件のお母さんへの信頼を見た思いがしました。このような高度な精神行動を発揮できる根底には、お母さんに絶対的な信頼をおかなければできません。赤ちゃんも知らない大人なら渡らないでしょう。つまり人間の赤ちゃんは生まれながらに社会性を持った存在であるし、無条件に信頼できる・安心できるお母さんという場の占める割合が大きいということを証明しています。人間の乳幼児は、無条件に信頼・安心のもとで母親の顔色から、「いけないこと」「よいこと」を学ぶ高度なコミュニケーション能力を持っていることです。
   これは3歳までは言葉が通じないのでたたいて体で教え込まなければわからないのでなく、かわりにお母さんの悲しそうな顔、怖い顔、そして言葉のトーンで「いけないこと」を、また優しい顔などで「いいこと」を伝えられるということです。無条件に安心・信頼のお母さんの腕のなかで、いたずらや失敗を重ねてゆっくりと自分の個を成長させていくのです。
   それには、コロコロお母さんの態度が変わってしまうと赤ちゃんはとまどってしまう。また子どもを傷つけるような言葉づかいも赤ちゃんを傷つける。そのような態度は人間を信頼できない子どもに育つ危険もある。だからまわりの人達がゆったりとできるようにお母さんを支援することが大切と思います。また早期教育という子どもにとってよかれと思う親の学歴の押しつけが、自分の要求を抑えゆがめられ信頼・安心の心でなく、少年事件に発展することはありうるということです。

《乳幼児期の安心・信頼は人間観を左右する》
   
間としての特性である対象は生母とは限らない。それに代わる絶対的に安心・信頼を託せる人が赤ちゃんにとって必要ということであると思います。
   カウンセリングの学習のなかでこのような関係がうまくできなかった人が社会生活でコミュニケーションがとりにくい人格に育っていくことも学んだが、それが今回この実験で裏付けられたと思いました。

《赤ちゃんは2歳までは本物との区別がつかない》
 
もう一つ、実験があった。2歳ぐらいまで人間の赤ちゃんは、本物と実物の区別がつかないという実験です。
赤ちゃんでも座れない小さい椅子に自分が座れるかどうか、わからないで座ってしまう。写真の靴でも履かれると思ってしまうという実験でした。
   この実験の後の解説が、「人間の2歳までの赤ちゃんにとって実体験が大切」と述べていました。赤ちゃんにとって小さい失敗が大切ということでしょうネ。もちろん同じぐらいの年令のチンパンジーの子どもはちゃんと区別がつきます。   K子

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年6月29日 (水)

神戸・こどもと教育ネットワーク おやじ追伸その3

いよいよ若者おやじへのつぶやきも佳境に入りました。おやじ追伸1~3続けてどうぞお読みください。

「受験戦争」「いじめ」「つめこみ教育」こういうのはずうっと昔からよく言われてきましたよね。で、結局どうなったのかというと、どうもなってないんですよね、これが。悪いのは知ってるんだけど、変わってない。変わってないのは分かってるんだけど、変えようと努力しない。んで、ずっと臭いものにフタしてきた、と。いざ覗いてみたら、とんでもないモンが育ってるぞ、と、ちょっと大人も焦ってきた。こういう状況だと思います。

 つまるところですね、「子どもを知るには社会を」見れば良いんじゃないか、と言うことです。んで、「社会を見るには、社会を映している子どもを見る」というのもアリで、結局どっちが先か、ニワトリか卵かということになっちゃうんですけども、こういう見方をしていくと、「少年法がどうたら」とかいう意見がいかに的はずれで何も見えてない意見かという事がですね、分かると思うんです。

いまはですね、とりあえずそれで良いんじゃないかと思います。
とりあえず、少しずつ「自信」を回復していかなくちゃならない。そのためにはですね、逃げてちゃ駄目ですね、とりあえず。環境問題とか、米軍とか、教育問題とか、医療問題とか、教科書検定とか、アトピーとか、400兆円におよぶ累積債務とか、全部、正面から向き合ってですね、対処する。そうして、苦しいけれども、真剣に向き合って、勉強して、対処する、と。そうすると、克服する頃にはですね、ルーズソックス履いてる人もですね、減ってるんじゃないかと。

かように思う次第です。

ここまで読んでいただき感謝いたします。

以上、若者からのつぶやき、今から10年前のものですが、あまり変わらない情勢を見ると・・・・まだ、大人は同じ調子・・・
ひょっとして、これを書いていた若者も、もうすぐおやじの仲間入りになるとすると・・・事は深刻です。子育てを女性に任せているうちに、どんどん深刻な事態になっていきます。「えっ子育て!」と、一見違うようですが実は、そこが盲点なのです。次回はそこをお話ししましょう。次回がこのお話の最終回になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月22日 (水)

神戸・こどもと教育ネットワーク おやじ追伸

子育てに参加することが、どれだけ得をするか?ご存じでしょうか?おやじにせっかくなったのに、「子育て」に参加せず、「子育て」を女性に任せている方々は、人生を誤る恐れが大いにあることを、警告いたします。(ちょっと、言葉としてはオーバーのようですが、実感です。)あなたの人生だけではなく、そのことが、いろんな方々の人生、つまり、「人々の人生を束ねた世の中)社会の歯車さえ変えてしまう・・・そのことに気付けば、私の警告も納得がいかれることでしょう。

こんなことを書くことになった根拠になる若者の「つぶやき」があります。若者から見た「今の大人(特におやじ)への要望、批判、期待、訴え」がこもったつぶやきです。今の子どもたちの様々な困る問題、それは、子どもが悪いのではない・・・と言いきっています。そして「おやじ」がちょっと変われば・・・解決する・・・と。どういうことなのでしょう?次の機会に連載していきます。お楽しみに・・・・。(もし、こんなことでは、と思いあたる方は、お知らせください。共に考えていきたいと思います。)

| | コメント (1) | トラックバック (1)