2009年3月 7日 (土)

本の紹介 『優しい学校は いかが?』小川嘉憲著 文芸社 1400円

(どの子も 行きたくなる 学校をめざして) 

20090307osusumehon_2  カバー帯文より
「工場のような学校」でいいですか?
「生きる力が乏しい」と言われていた子どもたちは、実にたくましく、働き者だったのです。
「学ぶ意欲が弱い」といわれていた子どもたちは、心理を探求する「学習好き」だったのです。

「子どもたちを愛してやまない、それが教師」
阪神・淡路大地震を体験し、教育の再生に奮闘した、元中学校による心温まる実践記録。

私は、四十年間、中学校の教師をしてきました。その経験からしても、今ほど「子どもたちに冷たい」学校と社会は無かったように思います。
(中略)ちょっと待ってください。子どもたちの声に耳を傾けてください。子どもたちに話し合いをさせてやってください。きっと大人たちの信頼に応えてくれますよ。この本には、そんな子どもたちがいっぱい出てきます。子どもたちに寄り添い、子どもに学校を合わせる「優しい学校」です。

感想小川 嘉憲さんの、この実践記録は、60年代の「山びこ学校」(無着成恭)、「学級革命」(小西健二郎)、「村を育てる教育」(東井義雄)に匹敵するもの、いや、それを超えるものと言っても、よいでしょう。
教師・生徒、父母・地域、の知恵と力が、ない交ぜになって、現在の、学校・教育の困難な問題に取り組み、解決の方向を見出そうと奮闘している姿が、生き生きと、温かく、描かれています。

それは、兵民協での中野照雄さんの講演「授業をめぐる学生気質について」(科学的な探究心に餓え、仲間とのかかわりを求めている学生たち)とも通じるものだと思います。   紹介者:小川 旦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月25日 (水)

「授業をめぐる学生気質について」

兵民恊 拡大事務局会議(2/21)での中野照雄さんの講演    要約 小川 旦

科学的な探究心に飢え、仲間とのかかわりを求めている学生たち
・ 38年間の教師生活。
・ 素敵な新採用の先生との出会い。スクールアシスタント、07年7月~08年3月。
理科専科2クラス、校庭の木、自然を持ち込む。困難をかかえている、子どもが生き生き、蚕・実験を楽しんで・自然のたより(冊子作り)・3年生との交流で
1.生活科前期の授業を受けて(9人の先生・各教科のエキス・140人)
・放課後の学生・授業の様子(私語)・仲間とのかかわり
2.後期生活科教育法(4回)
①子どもの興味・関心・生活を教室へ
・ 小1プロブレム(学級崩壊現象)を乗り越える―すずめ・せみ―・自然のたより
・ 種の観察(だいずー芽の準備と子葉、双葉ははとに・小麦―8割が知らない・種を割ること・初めての観察・白い物は胚乳・皮は?・中がへっこんでいるのは?―新たな発見)
②フレネ学校の子どもたち(ビデオ)
フランス・3歳~11歳60人3クラス・教科書はない・各自の計画表に沿って学習・カードが並んでいる・表現重視(自由作文・印刷・地域・学校間)・子どもが主人公の学校
・ 学生たちの反応―いつも指示されて勉強してきた・まわりをいつも気にして生活してきた・人を批判などできない(いじめ)・こんな学校に行っていたら楽しかっただろうな
③自然と遊ぼう―草木が仲間を増やす知恵―
・ 作る時は友達のを見たりしてよく飛ぶように工夫する・教えあって作ること
・ 学生たちの反応―種の不思議に感動・マツボックリの働きに感動・鳥が食べて糞で種を運ぶことを知らなかった・種や鳥の学習が楽しかった。グループの友達と助け合ってする雰囲気がとてもよかった。
④動く車を作って遊ぼう―風で動く車―
・ 準備物をそろえることが学習・準備物がそろえられると半分できている・班の友達と走らせて見ること・班で一番よく走るのはどの車
・ 学生たちの反応―友達と会話をしながら、助け合いながらの作業はとても楽しかった。
 班活動がほとんどで、友達と協力しながら作ることで仲間意識も強くなる授業でした。えあうことでコミニュケーションが取れるところが良い。友達と走らせて夢中になった。
楽しく分かる授業づくりのポイント
1.教える内容がはっきりしているか 2.子どもの思考の流れに沿っているか(思考をゆさぶるのが授業)3.具体的か(活動があるか・具体物が適しているか・発問が精選されているか)4.学び合いがあるか(グループ)その結果、発見・驚き・感動があり、新しいことを知り、おもしろかった、よくわかったという喜び。
すばらしい内容だった。中野さんの生の話を聴く機会を是非、持ちたい.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月25日 (水)

「なんで学力テストに反対するの?」

学力テストの裏にある国の想いは、国民の想いと違うのです 
 自分の子どもの「学力」を知りたいのに、なぜ反対なのかと思われるでしょうネ。学力の調査は必要だという人もあるでしょう。また学力テストだけをみていたら、これは私達に関係ないと思われる方もあるでしょうネ。でも必要と思う人も関係ないと思う人も含めて、裏にみんなの思惑を越えることにテストを使おうとする国の流れがあるのです。今でさえ過度な競争教育です。国連からも日本は過度な選別と競争で子どもが発達障害を起こしていると勧告を受けているのですよ。過度な競争は子どもの心を育てません。
 今、憲法を変えて軍隊を持って外国で戦争ができる国にしようと改憲手続き法案が、衆議院を与党だけで強行採決しました。私達の暮らしを含め、日本がどういう国に向かわされているのかとすべての人に関係があるのです。日本では、新自由主義と新保守主義の二つが同時に進行しています。どんな風に私達の暮らしと学力テストと関係があるのでしょうか。

戦後の日本の教育は 大企業の要請の学力偏重教育
  戦後の少しを除いて日本はずっとテストの競争社会でした。ずっと大企業の要請にあった教育でした。私もつらい受験を経験してきました。今も昔も大学の格差があり、高校の格差がいっそうひどくなっています。それを義務教育の小学校からしていこうとしています。なぜ政府はこのようにしていくかは訳があるのです。バブルがはじけて大企業が生き残るためには、企業の終身雇用をやめ、難しいことを考える数パーセントのエリートだけでよい。昔のように誰も学力をつけなくてもよい。今は技術の熟練でなく操作だけでよいから頭を使わなくてもできる、と大企業がいっています。そのための提案がゆとり教育というのでした。そのため日本は世界の学力テストが下がった。学力の低下と人々が騒ぐからそれを世論の動きに合わせて政府はいろいろ改革をしようとしているのです。でも政府は本当に国民みんなの学力を上げる気はないのです。だまされてはいけません。それは私達の暮らしがくらしにくくなっていくことと関係しています。

新自由主義とは
  新自由主義とは弱い立場のある国民をカバーするための規制を緩和し、資金のたくさんある人が得しやすい政策を政府がとることです。構造改革とも言われています。アメリカ生まれの考え方です。公という国が、弱い立場の人たちに福祉という格差がつかないように出していたお金をどんどん削ります。例えば、母子家庭に母子加算や老齢加算の廃止、老人の医療を少なくしてあげるのも国がフォローしてお金を出していました。定額控除などわずかでも国民にとって大切な税金返還でした。しかし国は福祉にお金を出さないで法人税をまけてやる大企業減税、大資本家減税(証券優遇税制)など大企業優遇の制度にしていきつつあります。05年税の負担率、富裕層の所得税負担額が所得3千万円超5千万円以下の層より低くなったとその逆転ぶりが朝日新聞に報道されていました。
  そのため国民保険が払えなくて病院へ行けなくなったり、生活保護を申請してももらえないで餓死したりする人もこの日本で起きるようになりました。70年代から80年、一億総ホワイトカラーと言われたように日本に貧しさがなくなったと言われた時期もありました。でも今は税金を国民のために使う日本でなくなりつつあるのです。そのため格差社会と言われるように貧しい人とセレブと言われる人々が生まれつつあるのです。働いても働いても貧しい「ワーキングプア」という言葉も聞かれるようになりました。「ネットカフェ難民」というものあります。4月からまた国民年金の金額があがります。参議院選が終われば消費税16㌫にあがることが囁かれています。

学力テストを現場の教育の「成果」として使う
  そして「教育」も郵政民営化のように自由な競争のもとにおこうとしています。明治以来、公教育として希なる就学率を誇りました。欧米に追いつき近代戦争のためには国民みんなに読み書き、集団行動が大切でした。それをやめるというのです。学力テストをするのに大手の受験産業に学力テストに96億円もの税金を投入してもうけさせます。学力テストは私達が暮らしにくくなっていくのと同じ根っこにあるのです。
  学力テストという成果でお金を配分し、教師を競争させ市町村の学校に序列をつくり、自由競争だからテストが悪くつぶれる学校があってもいいということです。つぶれる子どもが出ても罰を重くすればよい。もはや憲法にあるような平和的な人格を持った国民を育成する「公としての教育」はないということです。そこが子どもの実力を知りたいという人々の願いとすれ違うところです。それなのに国は矛盾するように教育を手放さないで心を縛っていこうとしています。それが新保守主義といわれるもの、それだけ教育は大切という裏返しだと思います。

日本の新保守主義
  昔、日本は天皇の赤子として命を捧げることが国を守ることだと世界を相手に戦争をしました。この時教育が大変な強制力をもって戦争に向かう国民を養成しました。
   今は、国が教育にお金を出さないのに、心を国のためにと変えていこうとしています。教育3法案で政府は規範が大切と子ども達に愛国心を植えつけるように言っています。「お国のために命を捧げる」という美しい国づくりとも言っています。学校では「心のノート」という愛国心と受けつけるさきがけになるような副読本を数年前から配っています。先どりして愛国心を通知簿につけていた学校もありました。道徳を科目にして評価しようという話も出ています。昔とよく似てきています。すでに憲法の戦争放棄している9条をを変えた暁の用意は進められています。昔とそっくりでないが、昔のように戦争へ進む準備が進められているのです。国が地方にお金を出さないで放るため地方格差が生まれているのに、国が県、市教育委員会に強力な指示命令系統を下す法律も準備されています。大きな視野でみると国が教育を引っぱっていくのは危険であるというのは、歴史が証明しています。
   憲法を変えるための手続き法案が参議院で審議に入っています。憲法を変えて日本がアメリカの傘下のもとに再び武器を持って海外に戦争する国にする憲法改正手続き法案」が新自由主義と同時進行しています。この愛国心は、真の愛国心でなく他国を蔑視し、自国を大変持ち上げ優越感を植えて戦争準備へもっていこうとする考え方です。そうした動きの見え隠れとしてこの頃、よく耳にするのが靖国神社に首相がお参りするだのしないのだの、従軍慰安婦はいたか、いないのです。また日の丸君が代について東京都ではたくさんの教師達が歌わなかったことで罰を受けたとかいう話があります。それが新保守主義と呼ばれているものなのです。

憲法を変える手続き法案と戦争に行くのは、どんな若者?
  そして誰が戦争にいくのでしょうか。学力テストで負け組になった人々を国のために役立つようにし向けるのです。まさにアメリカがそうです。負け組となって戦争に行くのは、貧しい白人や黒人です。間違っても小泉さんの息子の孝太郎君は行きません。昔もそうでした。同時に戦争をするということは「人権」が制限されるということです。普通の人々も不自由に巻き込まれることです。新しい憲法草案を読んでも非常事態という名目で個人の命よりも国の政策が優先されるのが想像されます。テロも起きるでしょう。
  21世紀です。戦争なら殺人も許されるはずがありません。世界の大きな流れは日本が持っている憲法9条です。それなのに逆に戦争をする国にしようとしています。今、国民は戦争を必要としていません。きっと昔も少しずつ法律が変えられて気がついたら戦争に反対したら牢屋行きとなっていたのでしょう。母はどんなことがあっても戦争だけは2度とイヤと言いました。今はそうなる前の綱引き状態でないでしょうか。女優の渡辺えり子さんは「父親が戦争であわや命を落とすところだった。父の友達は家庭を持つ幸せを知ることなく亡くなった。今私があるのは父親が生き残ったからです。だから戦争は反対です。」と述べていたのに感動しました。戦争は命をつなぐことにも関係あるのです。

真の学力とは?
  今の日本の憲法96条に憲法を変える手続きが書いてあります。「憲法の改正には各議員の3ぶんの2以上の賛成で国会がこれを承認し、国民に提案してその承認を経なければならない。憲法には特別の国民投票または国会の定める選挙に際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」、と書いています。
  でもその過半数が国民のほとんどの人が投票したうちの過半数なのか、例えば20㌫の人々が投票したうちの過半数なのか、そこに書いてありません。それで今、それを決めようとしているのが衆議院を強行された手続き法案というものなのです。それの問題の一つに投票率が少なくてもいいとしていることです。でも憲法って国のあり方を決めるとても大切なものです。それを少数のパーセンテージ確立だけで変えていいのでしょうか。それで反対の運動が起きているのです。憲法を変える手続きを「決めてくれ」と要求したのは国民の側ではありません。政府側からの要求なのです。だから知らない人も多いのです。政府にとって知らない人が多い方がやりやすいことです。みなさん、知っていきましょう。

  昔なら天皇や国王や幕府が法律を自分達の都合のいいように作ることができました。今は、選挙で選ばれた人々が国会で国民の代わりに政治を決めていきます。だから選挙が大事になります。戦前では税金をたくさん納める男子しかありませんでした。自由民権運動の普通選挙運動が起こって男子に権利ができました。でも女子にはありませんでした。それ以前、欧州では革命で命を賭けて国民が国という王権と闘いました。日本はそういう世界の人々の流れにやっと沿うことができたのが戦後です。長い日本の歴史のなかでほんの60数年、国民みんなが自分のための政治を実現してくれる人を選ぶ大事な権利を獲得しました。

  憲法第1条には国民は権利の主体であると書いています。国民は国の主人公だから国民が安心して暮らせるようにおおいに意見を言って行かなければなりません。言わなければ伝わらないのです。
  憲法99条には、憲法尊重擁護の義務というのがあります。そこには国会議員がその義務を負うとなっています。憲法を変えようと国会議員から出る方がおかしいのです。そうでなくて国会議員に私達が暮らしやすいように国の政治をしてもらう権利があり、国会議員はそのために働かなければならないのです。

   学校で覚えたことがすぐはがれるというのが日本の学力です。どんな国にするのか、人間何歳になっても国民ひとり1人が物事を知って賢くなることが問われている。これが学力というものではないでしょうか。   K子

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月19日 (木)

再開された学力テストの真のねらいは?

再開される学力テスト・個人情報違反の重大な問題が!
   前回に書いたように、国際学習到達度力テストの結果が悪かったことがきっかけで、学力テストが、2007年4月24日全国一斉に小学6年と中学3年に行われることになりました。抽出ではありません。これから毎年行われます。学力テストの実務は民間の受験産業に委託します。NTTデーター(旺文社)とベネッセ(進研ゼミ)です。税金のお金を49億円も払います。問題になっているのがテストに個人名やテストに関係ないと塾に行っているかなど92問の家庭環境調査の質問項目の記入があるようです。塾勧誘の資料として受験産業がのどから手が出るほど欲しい資料が政府の庇護もとに民間企業に渡るということです。個人情報が握られるので憲法違反とも言われています。
   本来なら全国一斉にテストをしないで、担任の教師がテストを採点し、ひとり一人の子どものつまずきを見つけ、そのために再び理解させる手だてを考えるものです。それには教師に放課後、ゆとりを与えなければできません。そうしないのは別のねらいがあるからです。なぜなら教育もまた他の産業と同じく規制緩和をはずし、「新自由主義改革」にしようとしているのです。要するに国鉄や郵政事業と同じく国が金を出さずに競争によって学力もあげていこうとするものです。どの子も力をつけていく「学校の公教育」という使命をはずそうとしているのです。
   義務教育の学校を序列化、大変な競争と格差に学力テストを使う?
それは、どのようにしてそれは遂行されていくのでしょうか。次のようなセットで遂行されます。
   第1に、子ども同士競争意識の涵養のため学力テストを実施するということです。今でさえ日本の子どもは過度の競争のために発達障害を起こしていると国連の子どもの権利条約のDCIから勧告を2度も受けているのに・・です。「切磋琢磨が必要」だって?この国の大臣はどこをみているのでしょう。
   第2に学力テストと学校選択制のツウーセットで、親の学校選択の指標に学力テストを使うというのです。イギリスのサッチャーがやっていた「教育バウチャー(予算配分)制度」導入です。学力テストがよい子どもの学校に補助金が降りる制度を入れようとするものです。その配分の基準としてこれから行われようとしている学力テストを使おうとしているわけなのです。なんとひどいことでしょう。学校間、自治体間も競争させられてしまいます。今まではどんな小さな学校でも最低の基準を満たすべく施設などありました。公のものだからです。それをテストの点が悪かったらやらないというのです。悪い学校は廃校になってしまいます。民間委託に追い込まれるでしょう。まさにお金は出さない小さな政府、どの子も学力をつけていこう、人格の形成という公教育はそこにはありません。
   東京都が先取りでもうすでに3年です。いろいろな弊害が言われています。親は学校を自由に選べて良いように思われますが、基準がパーパーテストだけです。それによって親は選ばなければなりません。どうしても学校への学力への個々バラバラな注文が多くなり教師は汲々しているそうです。東京都ではすでに教師になる学生が少なくなっていると東京の大学の教授が述べていました。また、新入生のない学校も現れたということです。子どものいない地域はゴッドタウンみたいで不審者は出るはで、地域が沈没するようだと地域の人が述べているのをテレビで放映していました。イギリスではすでに見直しがされようとしているのを何で今更、と言いたくなります。
不安定な職業にすることによって、よい教師は生まれるの?
   さらに、国民の教師批判を取り入れ、公教育破壊のセットとして教員評価を新しく導入しました。私達も勤務評定はされていましたが、組合などの運動により実質評価は生きていませんでした。それを新たに効果あるものにする評定が導入されました。今の給料全体を増やさないで多い少ないと差をつけます。
   10年ごとに免許更新制も言われています。教師という仕事も10年度の更新のために途中でリストラにあうような不安定な職業になります。さらに人格の形成者として使命に燃えたことをしても上司に評価されないとだめです。結局上司である校長などの顔色を伺うことになります。教師になるのはいやだという学生も多くなるでしょう。よい人材が集まり育つはずがありません。国民が願った「悪い教師」を首にすることはこんな形で実現してしまいます。
   教育は「商品」でそれを扱うのが教師で、顧客は「親」で投資した子どもへの見返りが「学校がつぶれる」では割があいませんネ。教育に市場至上主義は合いません。学力テストでよい点をとるという「成果」を競わさせられる教師は、崇高な使命を持っていた前の教育基本法とまるで違う仕事になってしまいました。教育は内容を教えるだけでなく、子どもとのコミュニケーションで人格形成にとってとても大切なものなのです。商品化は人間の内面を大切にしないものです。
国の新たな教育統制
   お金は出さないのに、第3のねらいとしてこの際、国・文部科学省による教育の管理と統制の新たな仕組みを確立します。国が計画(プランP)→実行(ドウD)→点検・評価(チェックC)→改善(アクションA)を握ることで、少ない予算で強力に管理するのです。学力テストは点検・評価に当たります。PDCAサイクルと呼ばれる仕組みを作りました。各学校での地域に根ざした独自の取り組みなど入る余地はありません。私は校長をしていた友達がいるので、どれだけ校長達が教育委員会などのロボットとして身を粉にして一言一句違わないように身をすり減らしているかがよくわかります。だからこのような仕組みが新たに作られたら校長になる人も少なくなるのではないかと思います。現に先取りが行われている東京都はそうであるそうです。国は地方分権と言って金を出さないのに、教育だけ微々に渡って統制するのはわけがありそうですね。
   つまり政府が行おうとしている学力テストは子どもの学力を伸ばすためのものではありません。国際競争にうち勝つ3㌫の優秀な人材さえ確保できたらいいのです。ほかの子どもは国に命を捧げる実直な心をもっていてくれたらいいのです。「愛国心」を評価するということが教育再生会議で言われています。先取りですでに全国で評価させている通知簿がありましたネ。政府というお国のためにのみ命を捧げる「愛国心」は大事です。アメリカさんの「つっつき」がひどいのでね、それで今回特に憲法第9条を変えて戦争をする国にしようという話が進んでいるのですよ。最近私は政府というものは、何かのきっかけでこじつけて私達が願う内容と違うものに変えていくものだなあ、とつくづく思っている次第です。教育が大事だからこそ国は規制緩和しても、国のいうように動く人間づくりをねらっているのです。
日本の旧教育基本法を手本に、学力世界一はフィンランド
  ちなみに全体的に上位だったのはフィンランド。読解力と科学で1位。韓国とともに四分野すべてで1位グループに入りました。フィンランドは日本で言うような意味での受験のための教育熱心な国ではない。注目すべきはこのフィンランドは1990年代に日本の教育学者を招き、日本の旧「教育基本法」の精神を勉強して取り入れられたということです。ところが日本ではそれを昨年に強行採決で変えました。給食費滞納の問題のように、日本国民は問題が起きると本質を見極めると論議よりも、いつもなにか政府がやりたかったことを「この際のきっかけ」にすり替えられているような気がする。こんな感想を持つのは私だけでしょうか。このブログが考えるきっかけになれば幸いと思います。 K子  

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月16日 (月)

学力テストは子どものためになる?

  昔、40数年ほど前(1956年全国一斉学力テスト第1回目)、学力テストが実施された時期があった。テストの平均点をあげるため成績の悪い子は欠席するように促されたという伝説がある。弊害の方が多く、4年後に中止された。

再開のきっかけは、国際学習到達度調査で日本の子どもの学力低下
   ところが、そもそも、学力テストを子ども達に実施しようという話が再浮上したのは、2003年に実施された経済協力開発機構 (OECD)が行った国際学習到達度調査(PISA)の結果が悪かったというのにタンを発している。この調査は義務教育が終了した15歳を対象に、学んだ知識・技能を実生活でどの程度活用できるかを見るために経済協力機構(OECD)が実施し、ペーパーテストの結果で評価したものだ。2000年に第1回が始まった。
   2回目の調査で日本は「読解力 8位→14位」「数学応用力1位→6位」というように下がる結果になった。日本は加盟国41カ国中、もっとも低下が激しかった。特に「文章の意味の理解」や「記述式の問題」の成績が悪かった。また他国に比べ、生徒間の格差が大きかった。同時におこなった生徒への質問で「数学が楽しい」「興味がある」と答えた生徒がOECD平均より少なく、数学嫌いの生徒が多いということでした。
   そして安倍首相になって、教師によるいじめ自殺を契機にいじめ自殺問題が全国に波及し、悪い教師を辞めさせるよう、教育委員会の力を強めなければというテレビやそれに後押しされるように世間の目が教育問題にひきつけられた。問題の本質が何かを考える間もなく、あっという間に戦前の反省の上に作られた60歳の教育基本法が原因、とばかりに変えられた。学者や教師はそうでないと主張し、世間的には盛り上がることなく強行採決で変えられてしまった感がある。そして国民は、いじめと学力テストと教育基本法がどんな関係があるのかゆっくり考える間もなく、あれよ、あれよと言う間に安部政府の進める学力テストは「子どものためになる。」という気持ちにさせられている気がする。しかし、教職の現場にいた者としては「ちょっと違うな。」という気持ちなのです。学力の低下はずっと前から始まっていたのです。最近、私は何かのきっかけをネタに国民の願いとは別なものに変えられている危機感を持っています。

学力の低下は、30年も前から文部省の指導で始まった!
   ちょうど2003年、国際学習到達度調査の頃、日本の「ちまた」では子どもの学力の低下が言われ、大学生も高校の学習をしなければ大学の授業が進められないという事態も生んでいました。そこへの結果だったため、「学力低下」とセンセーショナルに新聞に報道されました。しかし現場の教師はやはり、と思ったのです。文部科学省はその対策として学力テストの再開を口にしました。まるで学力テストが子どもの学力をあげるために必要だと、ばかりの言い方に思われました。しかし、学力低下は30年前に「ゆとりと充実」という文部省が使い始めてから始まっていたのです。
   約30年前、ゆとり教育と充実の導入と言われた1977年度版の学習指導要領は80年から施行された。オイルショックの後のバブル景気の時代だ。事実上、教える内容は減らさず、「ゆとり」という時間が導入された。授業時間の削減、小学校1時間の授業は40分から45分になった。落ちこぼれは当然生まれるが「能力適性」という言葉が強調された。まだ若かった私は逆に教師も子どもも、ゆとりがなくなったのを覚えている。放課後、子どもと勉強する時間を見つけるのがやっとになってきた。

新学力観は「わからないのも個性」 大切なのは「意欲・関心・態度」
   教師に「こう教えなさい」と決めるのは文部省(現在の文部科学省)でそれが書いてあるのが学習指導要領です。法律的に教師の裁量で出来ません。学習指導要領は10年ごとに改訂される。 
   1989年度版の学習指導要領が92年から実施され、低学年で生活科(理科と社会が廃止、統合された教科)が新設、中学でも進路により選択教科がすべての教科に拡大され、どの子もきちんと受けなくてもよくなったという文部省(現 文部科学相)の方針が出た。重視となり、できないのも個性、今までみたいに詰め込みはだめ、「新学力観」と言われた。具体的には宿題を出してはいけない、今までのように放課後できない子を教えてはいけないとまで言われた。詰め込み時代も現場の教師は、わからない子にどんなことでもしてわからせようと、それなりに頑張るのが仕事だと思っていた。それを否定されたのだ。「意欲・関心・態度」を通知簿で評価するようになったが、子どもの心の中まで評価するのには本当に困った。今回「愛国心」の評価が言われているが、小泉元首相も困ると国会で答弁していたが、その先達を私達はすでにやらされていたというわけだ。週5日制月、1休みが導入された。問題児の生活指導や学年での話し合いやまとまりと言われていっそう会議が多くなった。放課後はほとんど子どもとの時間をとれなくなっていた。だんだんあきらめになってきた。
学力低下の真犯人は、薄い教科書と忙しい職場
 
その流れで10年後、1998年、実施は2002年から始まっています。経済は低成長期に入り、大企業が生き残りをかけて子ども達の教育を提案しました。3年生以上に「総合的な学習」という時間が設置された。その準備で逆に教師はとても忙しくなった。教科書の内容も3割削減なのに週休2日制になり、総時間数が週休前のままで朝の時間まで子どもは、学習時間として学ばなければならない余裕のなさになった。内容削減で有名なのが円周率を3と教えるということである。学年到達目標は学年層目標となった。ややこしいのが漢字は読めると書けるが一致しなくてもいいということだ。それよりも「生きる力」が大切と強調された。
   現場では実施される前にカリキュラムを組んだりして先取りをするので、施行される前からすでに子どもの学力はいっそう落ちるのは目に見えている、と教師仲間でささやきあっていました。だからすぐ学習指導要領は手直しされるだろうと思っていました。
   「ゆとり教育」と言われて30年、現場は個人の裁量は許されないで、放課後、会議ばかりで子どもとの時間はとれないのは当然になってきました。不審者が出たりして子どもは集団下校させて、教師が見回りをするようになったり、忙しさだけがいっそう加速され、仕事の遅い教師はだめのような雰囲気さえできてきた。土曜日がなくなったかわりに一緒に食事をすることもなく、教師間の親密感も薄くなっていったのが実状です。普段の日の仕事が過密になり、土・日はグッタリとなります。

  ゆとりと長年言っておきながら、今度は学力テストで「切磋琢磨」で競争しないと力がつかないと言い出しました。長年教師をやってきた者にとって、文部科学省の指導の結果が学力低下であると思うのに、そんなことは全く眼中にない、いきあたりバッタリのようにみえて腹が立ちますネ。ところで再開される学力テストは子どもにためになるのでしょうか、それは次回へ。                    K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 7日 (水)

学校給食は教育活動の一環です

学校給食の始まりは貧困児童救済
  明治22年〈1889年〉山形県の貧困児童を対象に昼食を与えたのが学校給食の始まりと言われている。以後学校での給食は、昼食が食べられない貧しい児童に国の補助を得て広がった。世界的にみても日本と同じように、各国とも貧困児童に与えたのが給食の始まりだ。日本では戦争時代になるとその給食がなくなった。日本中に食べ物がなかったからである。戦後、食べ物がないため当時の日本の児童の体格は大変劣っていた。お腹をすかした日本中の子ども達の悲惨な状態をみて、アメリカなど救援物資が届き再び学校給食が始まった。脱脂粉乳や余った小麦粉でパンが作られ与えられた。くさい脱脂粉乳はアメリカのブタの餌らしいとうわさしていた。よく知っておられる方もあるだろう。

教育活動の一環として法的に定められた学校給食
 
ところがこれが画期的に変わったのが昭和29年だ。学校給食は、昭和29年 学校給食法施行令、施行規則実施基準等が定められ、法的に学校給食実施体制が整った。この法によりこれまでと違い、食事についての理解や望ましい習慣をはぐくむと同時に学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うなど学校給食を教育の一環としてとらえることになった。例えば好き嫌いをなくすように指導しなければならなくなったわけだ。昭和31年、中学校にも適応されるようになった。しかし小学校でも給食が施行されない地方も多かった。ただし、給食費は保護者負担と定めている。
  昭和43年、学校指導要領に改訂により、学校給食が「学級指導」の領域に位置づけられた。そのため給食がない地方にも実施された。昭和51年、米飯給食も導入されるようになった。しかし、まだ中学校に給食がない地方もある。
 「学校指導要領」とは、政府が児童に教える内容を定めたものである。それに沿って教科書がつくられ、義務教育現場の学校教諭は、その通りに教えることが法的に定められている。学習指導要領は国語など教科だけでなく、学級指導や行事など領域に分かれ、その時間数も定められている。だから学校給食は義務教育の一環なのである。そのため現場では対面給食にしたり、教師がそこへ入って喋ったり、異学年と給食したり、父母、祖父母と食べる行事を組んだりしている。近年、若年性生活習慣病のために指導も言われている。私も食物を前に「これは骨をつくるの。」と教えたものだ。材料費に国の補助はあるが、どんどん減らされ、給食費滞納もあって給食をつくる現場は大変困っている。

異端でも真理があるのなら当たり前にする道へ
  
給食はもともと貧しい児童を対象に始まった。だから給食費を払えない家庭では、国家的に払わなくてもよい施策がされてもいい。そのために就学援助制度というものがあるが、知らない人も多い。また貧困層が増えてきたと言われる現在、その基準を見直す検討も必要だ。
  教科書は無償であるが、私の小学校時代は有償だった。最近政府案に教科書を、また有償に戻す案も出たことがあった。それは実現されなかったようだが、教師の指導書(各教科の教えるポイントなどを示した本)が各学級から学年1冊に削られた。
  国は今、金がいる。大企業の税金(法人税)をさらに負けてやり、アメリカのグアム基地移動の金を負担してやり、自衛隊は海外派兵が主任務となったためもっと金が要るなど大変なのだ。削るのは国民の社会保障費しかないのだ。そのため国民の年金や保険や定率減税をやめるなど社会福祉の費用をけずっている。国会の予算案をみるとわかる。できたらまた消費税をあげたいと思っている。だけど学校給食滞納はたかだか22億円。アメリカへの負担とは額が違う。そんな方へたくさんお金を使うのなら、みなさん、学校給食無償の方に使ってほしいと思いませんか?話は少しそれましたネ。
  以上、憲法26条に定められたように、義務教育は無償で学校給食は義務教育に定められているので払わないというのは、必ずしもおかしいとは言えない根拠だ。法律よりも憲法が優先する。憲法は大枠であり、その子細は国民が要求していかないと変わらない。そもそも国というものはそういうものだ。だけど無償と言えば、ドリル、ノートなど一杯お金がいりますネ。どこまで無償にすればいいのでしょうか。でも税金は払った分だけ、目に見えるように私達国民の役に立っているように使ってほしいですネ。
 1980年代、丸坊主反対で長髪を続けていた子が全国にいた。そんなことできるはずがないと思っていたけど、現在、中学校の長髪は認められている。私はこの時、信じられないことでも変えることができるのだと思った。次元は違うだろうけど、昔は異端でもみんなが納得して声をあげていけば変わると知った。知識を持って筋を通して、みんなが納得と合意を作っていく中で、真理があるなら、特異が当たり前になると思う。そうなるように私達も勉強しなければならないと思うのですが・・・。
  K子  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月12日 (火)

いじめ対応へ有効な手だてとして早く 「学校選択制・教員評価制度」の「導入を」に

いじめ対応へ有効な手だてとして早く 「学校選択制・教員評価制度」の「導入を」!という声
   政府の規制改革・民間開放推進会議が、いじめ問題に関連して、学校選択制と教員評価制度導入を急ぐように文部科学省に求めている。 内閣府の調査では、昨年3月導入を閣議で決定したのにも関わらず、学校現場への導入が不十分であるとしている。 「学校選択制はいじめの予防的措置」と位置づけ、「教員評価制度は当時にきちんと行っていれば、いじめに荷担する教師は追放されているはずだ」と文科省や教育委員会の対応を非難しているそうだ。

導入は保護者からも要望
  内閣府の10月、11月の実施した保護者アンケートの調査によれば、保護者が「学校や教師を選べるような仕組みをお願いしたい」と要望しているそうだ。そういう保護者達の声はあるのは確かだ。TVのワイドショーでもなぜ教育委員会がそんな教師を放っておくのかとたくさんのFAXがあったから。

  兵庫県も来夏から一般職員と教職員のボーナスのうち勤勉手当に勤務実績を反映させ格差をつけると決めたと新聞が報道していた。ふだんの仕事を評価して反映させるのは初めてらしい。教師の志気を高めるのが狙いという。

導入されたらどうなるかと、立ち止まって想像してほしい
   真から底辺のできない子を大切にしている教師は、どの子も大切に教育実践していることなのだが地道にその成果のためにどれだけの時間を費やしていることだろう。しかし良い教師として保護者から、声が出ない。目に見えて普段の教育実践が評価されるためには、どうしても派手なパーフォマンスが必要になる。子どものための時間を裂くのでなく、見えるようにいらぬ作業が増える。格差がつけば、教師間に微妙なヒビが入る。手をつないで子どものことを語り合ったりして、相談できなくなる。問題の子を出している教師だと思われたくないのは当然の心理だ。もともと教師の子どもいじめは学校が多忙と上意下達でストレスがたまっているから起こるのである。この制度がきっちり導入されたらさらにストレスがたまるだろう。そしていっそう教師同士が高めあうということはなくなる。

  先行して実施されている東京都がそれをはっきり示している。東京都では学力テストのストレスで子どものストレスもますます増しているようだ。学校に新入学生がなくなって「ゴーストタウン」化した町もあるそうだ。まさに「町が沈む」と表現していた住民の声も報道されていた。

保護者は主権者としての意識を持とう
   今大切な決断を迫られているのは、国民である私達がこの国をどうしたいのかということであり、より上の権力に教師を罰してもらおうと頼ったり、「教師や学校が選べる」という「えさ」に惑わされたりして、本質を見失ってしまわないようにすることであろう。言い換えれば、保護者が主権者意識をもって主体的に教師と話し合う意識であろう。教師を問い詰めるのでなく子ども目線で、話し合って合意で教育を創造していくことであろう。そういう熱意が教師もまた育てるのだ。教師と保護者が手を取り合ってこそ子どもは育つ。どんな子どもに育てるか、「目の前の受験のための教育」をしたいのか、教育基本法に書いてある平和憲法を生かす「人格の完成」と子どもの権利条約の視点で子どもを育てていくのか、である。保護者もまた主権者として教育をどうしたいかという主体性をもつべきだろう。

教師もまた主権者としての意識を持とう
   教師もまた親が言いがかりをつけてきたという意識でなくて、国民に奉仕する人格の完成をめざす教育者という意識、子どもの権利条約という視点で保護者と根気よく、合意を創造していこう。全体の奉仕者として大切なのは、国や文科省や教育委員会でないはずだ。子どもや親の心に寄り添うと、実は「教師の多忙さや上意下達の息ぐるしさ」と親や子の生きにくさの根は同じであるという共感のなかで、手をつなぐことができるはずだ。現場は忙しいが流されるのでなく、どんな子どもを育てたいか、はどんな生き方をしたいかであり、プロとして国民に責任をもつ主体的な生き方を問われることなのだ。教師という人となりが、子どものコミュニケーションを結び人格を育てる責任を負っている。民間の成果主義のようにテストという目に見える成果が教育というのなら日本の将来は大変なことになる。

   私達にあるのは、いつも意見をいうことをでしゃばりと思い、異質を排除する気質があるということだ。デンマークの国民は、「民主主義は自分の納得しないところで物事が決められることを好まない体制だ」と定義づけていたのに感動した。国民誰もが憲法や教育基本法、こどもの権利条約をもう一度読んでほしい。  K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月20日 (月)

「子どもを虐待する鬼母」への思い

  いじめと同様に子ども、特に親の幼い子どもへの虐待が報じられる毎日だ。

「偏差値教育の輪切り」による被害者である世代
  ある日、新聞を読んでいてふと気づいた。大きな事件で、わが子を虐待する鬼たる母親の年齢が、自分の娘と変わらないと・・・。そして30代前半である彼ら・彼女達の中学校時代はまさに偏差値イコール人格の時代であったということを思い出した。学校で試験の度に「偏差値一覧表と自分の子どもの順位」を示したプリントが保護者に配られた。高校はその偏差値という輪切りで決められた。それまで見た目でしかわからなかったが、進学した高校を見て「あの子は見た目ほど賢くなかったんや。アホやったんか。」と思い知らされる現実であった。テストの点数で人格をみることを否定していた私でさえ、そう思わされるほどだった。中学校の教師はパソコンの画面で点数ばかりをながめていたら本気でそう錯覚させられるだろうと思われた。

  80年代の荒れは偏差値でなく、自分の存在を認めてほしいという子どもの思いを背景にしていた。しかし学校は個人の人格を否定する微細に渡った息つまるほどのきまりと、暴力による管理に頼った。そんななか、1990年、神戸市の高塚高校の門扉で殺された事件は起きたのだ。日常に渡って教師は暴力団のような体罰を行った。教師によるいじめであった。成績の悪い子は何をしても体罰をされた。私の身近にも怖くて学校へいけない子、登校拒否が見られるようになった。そのため子ども同士の、教師の気づかないいじめがたくさんあった。そのための登校拒否も多かった。親はわが子の成績が悪いから、わが子が悪いから仕方ないとあきらめた。

  私の子育ての中で、特に学校との関係で、どの子も中学時代がいちばん息をひそめるくらい困難をきわめた。そんな中学生活を送り、中学卒、また高校中退をせざるをえなかった子ども達の背負った心の中のトラウマを教師は、知っているだろうか。当時甘えることよりも親からは成績ばかりを気にさせられた子ども達は、学校によっていっそう自己肯定感を持てないようにされ、そのまま社会に出ていった。それがどんなことになるのか、あいつぐ子どもへの虐待をみて改めて気づかされた。

企業の働き方の変換の被害者たる世代
  80年生まれの末息子の時代になると学校は急に「偏差値」を否定し始めた。あまりにも過激な偏差値教育に世間の目の批判が出たこともある。偏差値一辺倒では企業にとって力になりえないこともわかってきた。だからボランティアなど表向きの態度を評価し始めた。現実には偏差値はずっと生きている。よい大学を選ぶ企業の体質は変わっていないから。3㌫のエリートでよいのだから。すでに反抗する勢いのある子はなくなったという学校側の話を思い出した。陰湿ないじめの時代に突入ということであろう。

  95年、企業が働き方を転換する方針を出した。新自由主義による規制緩和がいっそうはっきりしてくる。中高年はリストラで、若者の正社員は減らされ、派遣、請負という働き方しかできなくなる。私の娘と同じ30代のこの子らが働き始める頃が、就職の氷河期、超氷河期と言われる頃であり、06年の今に向かって働き方の無法は常態化してしまっている。しわよせはいつも弱い人々にくる。傷ついた心を背負った中学卒、高校中退の子ども達は、今は若い親達となって不安定な就労状況で働くのに必死である。また心理学からも自己肯定感のない人が、子どもとよい関係の子育てをできることは困難をきわめやすい。ましてや子育てが、個人に任される時代になっては、いっそう困難であることは想像できないことでない。秋田の事件の加害者の中学時代の「すさましいいじめ」の話を聞いて、彼女を責めることだけですむことでないと思った。

人は教育によって人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知る。
  経済からみた教育の効果は、人を「機械への投資」と同じとみることであるが、人は教育によって例えば、動機付け、指導力、協調性という社会生活・人間生活に大切なことも学ぶ。家庭生活、社会生活の場において、善良な市民として生きていくための精神、しつけ、規則などを学んでいく。平和、自由の尊さ、民主主義の意義、他人を慈しむことの尊さなども学ぶ。人格の完成と言われるゆえんである。だから発展途上国の労働者は、経済学の面から言っても使いにくいそうだ。

  ところが彼らの育った中学生活は果たしてそんなものを育てたであろうか。まさにテストによる競争、選別と管理のなかで、自己肯定感のない大人となり、劣悪な就労状況におかれ、子育て世代となった子ども達でないか。そんな彼らの子育ての様子をある教師が、「豊かであったはずの日本で、まるで発展途上国の子ども達をみる思いがする」と述べられた。まさに彼ら・彼女達はがんばる心、慈しむ心、善良な市民のモラル、いや人間としての精神さえ崩壊するまでに、社会の中でストレスに追いつめられてはしないか。それが多発する親による虐待を生んでやしないか。

  教育は人格の完成と教育基本法が謳うように、人は教育によって、人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知るのである。それが戦後だんだん、そしてますます企業のための人材教育となったため、いじめや虐待が多発するのである。格差社会が日本に生まれつつあるのは現実だ。しかし今だって遅くない。お仕着せでない、自分自身の考え方の核を持つことができたなら、世の中の荒波の飲まれることなく、自信を持って生きていけるにちがいない。またそういう教育を現場で行わなければならない。教師が自主的に創意工夫的な実践をする、専門家としての資質や能力を発揮できる学校づくりが必要なのだ。教師が相互に率直に批判でき、学びあえる学校、そういう民主的な基盤を学校に確立することこそ行政は支援をしなければならない。教師の免許を更新制にしたり、教師の勤務評定で給料に差をつけたりしても決して改善しない。悪くなるばかりだ。

  教育基本法改正法案が強行採決された。いや改悪だ。学力テストが導入されるとどういうことになるのか知っている人も多いはずだ。今よりよくなるどころが悪くなるのは目にみえている。   K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月14日 (火)

現場ゆがめた数値目標

  企業に成果主義が持ち込まれて、しかしいろいろな問題が出ているのに、新自由主義の規制緩和は残るところ、とうとう、教育の現場にまで持ち込まれてきた。教育に競争によって勝ち残るという市場主義はなじまないと言われているのに・・・である。もうすでにその先取りは行われている。後は国会で法による強制を始めようとしている。

  福岡県では07年までに「いじめの根絶」、つまりいじめゼロを「成果指標・数値目標」に揚げ、市町村教育委員会を指導してきた。高校の世界史単位未履修問題であってもそうだ。「教育臨調」で公教育の規制を緩和し、よい大学にたくさん入学させた数を数値化し、教育に市場主義を持ち込み、学校格差を作り出してきたのが政府自身だった。政府自身のあいまいさがある。私学に比べ、自由のきかない公立学校では週5日制のため授業時間を減らさざるをえなかった事情もある。世界史未履修をせざるを得なかった子ども達こそ、教育基本法のいう「人格の完成」をめざす教育権を奪われたというべきであろう。

  私達が、「教育をよい大学には入り、人生が約束されるというために」、また企業が「企業の人材であるための教育」であるかぎり、そういうことはあり得たのだ。ところが政府は自分の責任を棚にあげている。校長先生がたくさん自殺されているのに心が痛む。未履修やいじめ問題を利用して教育基本法を改悪しようとされないか心配である。また教育委員会の支配がもっと強くなることを恐れる。  K子

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月 1日 (水)

いじめを生む土壌は?

 私達の子ども時代も昔からいじめはあった。しかし集団で、長期に渡ってそして、誰も味方になってくれないという人間の尊厳を踏みにじられるようないじめはなかった。そして自殺にまで追いやられるまで、まわりのおとなも気づかないという人間関係の希薄さもなかった。どこかで誰かに助けられていた。

自分の存在価値が「数値」や「順位」でしか確認できなくなっている社会
   これほどまでにいじめを生む土壌は、おとなが作った環境にある。学校は点数、偏差値、順位などで容赦なく子どもとランクづけする。小学校1年生も1学期が過ぎればどの子もテストの恐ろしさに目覚める。通知簿をもらう時の騒然とした緊張感に教師である私はタジタジとさせられたものだ。高学年ともなればもう自分の相対的な位置がわかる。「僕の10年後の姿は、安いアパートでラーメンすすっている。」と自嘲気に言った5年男子は今どうしているだろうか。                 
 よい大学がよい企業に就職でき一生が保証される時代があった。1990年代に企業が3㌫のエリートだけでよいと方向転換しても、いやそれゆえ世の風潮は、選別社会にいっそうかりたてられている。早期教育は英語がトップとなっている。そのため今の子どもは、いっそうそうした選別社会で自分の存在価値が「数値」や「順位」でしか確認できなくなっている。何点か、何位か、あの子に勝ったか、負けたかという基準でしか人としての存在感が味わえなくなっている。教師もまた点数が悪い子は人格も悪いような錯覚に陥らされる。親もまた成績でしか子どもをみる視点を持たなくなっている。「あんたのためや」という押しつけである。現在社会は、家庭も学校も同じ価値で子どもを追いつめている社会なのです。

存在価値を求める衝動を持つのが人間 
 その結果、子どもは自分の相対的な存在価値を高めていくために、自分より劣る者、ランクの低い者を見つけだしてそれを見下し、さげすむ行動に出ます。相対的に自分より「できない、下手、遅い、弱い」子を見つけ、いじめることによって自分の存在価値を確認するのです。十分に集団で遊ぶことを知らない子ども達はコミュニケーション力が上手でない。うまく場の空気が読めない子がいたら、それを言葉で告げないでいらだちます。強く反撃できない子がいたら、自分のいらだちを発散させます。それがいじめの土壌なのです。心理学的にも人間というものは唯一「存在の意味」を求める衝動を持つ生き物なのです。だから成績の順位という価値にだけ「存在の意味」を縛ることが異常なのです。

「学校評価」「教師評価」という成果主義が現場の教師をいっそう荒廃させる
   新自由主義の規制緩和は、残るは教育の分野です。すでに学校現場では先取りは行われています。東京都はその最先端をいっています。学力テストが悪い学校はつぶされていきます。公立学校が、つぶされるのですよ。そのために子どもは今よりいっそうストレスがたまるのは想像できるでしょう?全国で小泉さんも認めた「愛国心を評価して通知簿につける」という無茶さがすでに行われています。

  福岡県では成果指標・数値目標として「いじめの件数を減らすという目標をたてました。そのもとで市町村教育委員会は指導してきました。そうなると教師はいじめをあかせば「ダメ教師」になります。そうでなくても学校というところは問題児童を出す教師をダメという雰囲気があります。私が低学年からのいじめを告発した時、校長は「女の先生が高学年を持つといじめが生まれる。」と言ってはばかりませんでした。だから年齢がいくほど学級に問題があっても周りの教師に正直の自分の気持ちが言えなくなります。そういう現場に、政府が「いじめは許せない、教師がそのメッセージを読みとろう」といじめをなくする目標をたて、数値にしてけしかけるほど現場は萎縮していくのです。ましてや給料に影響するとはなおさらです。

 週刊誌ではすでに「我が子のダメ教師の見分け方」という見出しさえ出ています。親もまたそれに振り回されない目が必要です。その目標をたてさせた政府はその責任に口をとざしているのに気づこうではありませんか。

教育基本法と憲法のいう教育の目標の実施へ
  企業の要請にあう人材づくりの教育であってはなってはならない。教育基本法のいうように人格の完成をめざし、個人の尊厳を重んじ、どの子も学力をつける教育が行われていればこういうことは起こらない。教育基本法10条のように行政は教師が横の関係を作り、論議していじめをなくすのに必要な諸条件の整備確立を目標にしなければならない。いちど、憲法、教育基本法を読んでみてください。教育基本法や憲法を変えてはだめだ、とお思いでしょう。弱い者へうっぷんをもっていくのでなく、きちんと実施していくように私達国民が国にせまることなのです。
     K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月21日 (土)

いじめと民主主義

TV「ザ・ワイド」に 教師を叱る制度を願うなど1000通ものFAX
 
いじめによる小学生や中学生の自殺が相次いでいる。テレビの「ザ、ワイド」のいじめ特集にFAXが1000通も届いたそうだ。子どもがいじめにあった親からの訴えを聞いていると「なぜ教師によるいじめを校長は知らないのか、教育委員会は、そんな教師を指導できないのか。教育現場はどうなっているのだ。」つまり教師悪者論で、もっと上の人がどうしてそんな教師をおっぱらわないのだという合唱に聞こえる。おりしもタイミングよく「教育再生会議」の初会合が行われ、「教員免許更新制や学校評価制導入」について話し合われている。これらの制度をつくると、そんな教師を追っ払っていい教師のみをおく学校にしてくれそうな幻想に陥る。また「ザ、ワイド」はいじめをする子は罰を厳しくすることが大切だという論議もあった。

遅れた教師の人権意識
 教師の肩をもつわけでない。現場には子どもを見下し、自分の意見にたてつく保護者を「文句を言ってきた」と表現する雰囲気はある。このような教師の人権意識を温存してきた戦前の「官」という意識はまちがいなくある。そして子どもに暴言を吐いていじめる教師もまた上意下達の組織のなかで自分に力のないことを、はけ口としてより弱い子どもに向けている。それがきっかけに自殺にまで追いやられた責任は重大である。そこで問われるのはこのような教師が力をつけていく職場での心を開いた話し合い、育ち合う民主主義があるかどうかである。それがないから子どもという弱い者へむけていった。また、このような職場は子どもへの管理と競争は非常にきついと思われる。だから教師の暴言がなくてもいじめはうまれる。教師の暴言により自殺した子へのいじめへの免罪符が与えられたという錯覚に子ども達は陥ったに違いない。憲法のいう平和を希求する国民の育成をまかされた教育基本法のいう「人格の形成」「全体の奉仕者」ということがどんなことか、私達はもう一度、原文を読み直して現状と結びつけて考えてみるべきだと思う。

支配されたがる人々
 しかし親達が、子どものいじめにさらに上の校長、教育委員会に言いつけるという発想もまた、民主主義的でない。このような教師はこの子だけでなく、他の子どもへの暴言によるいじめはあるに違いない。注意深く放映の語句を聞いているとやはりあった。だから共通した意見を持つ親達と担任の教師にねばり強く掛け合うことができただろう。官意識の教師は腹を立てるだろうが、話し合いは民主主義の基本だ。そうでなく、より強い者に決めてもらう、叱ってもらうという発想は危ない。フリーのジャーナリストの斎藤貴男さんの「非国民のすすめ」のなかに日本人について「国家に支配されたがる人々」という言葉がある。私はこのような人々の意識に乗っかかって、教育委員会の権限が強まることを恐れる。まさに国会で「教育再生委員会」が開かれているが、そこでは「教師の免許更新制」「学校評価制」が論議されている。教育委員会の権限をさらに強めて教師を萎縮させていく制度が強まることを恐れる。それが本当に国民の自分たちのためにならない方向をねらったものであることは、過去の歴史が物語っている。つまり国民は自分達で自分の首をしめかねない発想だと思う。全国的に起きているいじめに私達一人ひとりが、この国の主人公だという主権者意識をもって、納得いかない事は学校や教師にきちんと話し合いを持つ力を身につけることが求められると思う。そこから見えるものは、憲法と教育基本法をきちんと守っていないで競争と選別をしている戦後の国のあり方であろう。親達もまた憲法や教育基本法を読み直してみるべきだと思う。本質を見誤らない力が与えられると思う。   K子 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月27日 (水)

どうする、増え続ける小学生の暴力!

  子どもが安心して自分を出せる学校・学級づくりを!

人とのコミュニケーションが上手でない現在の子ども達
  岡山市でカッとなって友達をナイフでさした小6の少年事件があった。新聞報道で私が気になったのは、学校が警察にすぐ被害届を出さなかったというのを教委が批判したような書きぶりであった。考えてみれば障害事件だが、子どもを管理するが、官といっても学校というところはまず、子どもをそのように見ない。厳罰化の流れを恐れる。

  05年度の文部科学省の調査によると公立小中高校で起きた校内暴力が2年ぶりに増加に転じたことがわかった。特に増え方が目立つのが小学校だそうだ。この調査で浮かびあがるのが、カッとなって手や足を出してしまう子どもの姿だ。いらいらや暴発の気分を表す「ムカつく」「キレる」という言葉は依然から広がっていた。そうなる子の共通点は1つ、ストレスや不満をため込んでいること。二つ、ストレスの暴発を自制する力が弱いことだそうだ。カッなるやキレるというのは、ふだん我慢しているから暴発した状態の心理だ。さらにこのような子は言語化されない相手の気持ちを察する力が弱い上、ふだんのストレスや不満がたまっているから友達とのちょっとしてことでも、自分が攻撃されたように感じやすい状態はある。ふだんからコミュニケーションがうまくなく、自分の考えをうまく表現できにくいので勢い暴力という形になる。

子どもの攻撃性が新たな段階に                               しかしこの子はふだん問題のない子だったというから、潜在的にこういう状態の子どもは多いということだ。今の子みんなに、友達の気持ちを感じ取ることが苦手であるというのが共通してある。つまり、いじめが発生するの一因でもある。互いに場の雰囲気が読めないから言語化されない相手の気持ちも察したりする気持ちも弱い。友達が気に障る言葉も平気で発する。またみんないらいらやストレスを抱えているので、そこが力関係となり言語がしっかりしている子が主導権を振るい持続的ないじめと発展していく。また周りの子もその子の内面まで思い至ることができない。自分もまたいじめにターゲットとして排斥されるのを恐れるのだ。自分は自分というアイデンティティを育てていないといえよう。

   9条の会の作家、井上ひさしさんが「子どもに伝える日本国憲法」で『どんなもめごとも言葉をつくせばしずまる・・・』と書いている。 また、日本国憲法は平和を守り育てていく子どもを教育基本法による教育に期待すると言っている。しかし子どもの実態は、日常生活に言葉で互いに分かり合う力さえ育っていない状態と言えよう。これではおとなになっても知性でなく、情動の世界に追い込まれてしまう。暴力は戦争のもとである。

教師の指導に子ども観は大切な課題・・・子どもに寄り添って     「指導力不足」認定教師が今年は506人という。この制度は政府主導の「教育改革」を貫くための見せしめ的な措置であるという本質を持っているため、意図的に生み出されている側面を持っているようだ。またそのための教師品定め的世論の先取りの風教もある。   最近の研究によると「他者が自分を同じ考えを持つことを理解し、共感する人間特有の脳の仕組みがわかってきたそうだ。子ども達はと豊かな生活と学びのなかでゆっくりと育つ。しかし競争原理がいっそう持ち込まれた学校は、学力テストの先取りが学校評価、教師評価となって点数を上げることに目がいき、教師には子どもの内面が見えない状態がある。親側にも事件などがあり、子どもに目が離せない、失敗が許されない子育て環境が一段と強まっている。また生活崩壊現象や親世代の育児法規的現象も強まり、愛情に飢えた子どもの荒れも強まっている。

 学校でこのような事件が起こるということは、社会や家庭が問題であっても、やはり子どもを育てる使命をもつ学校の責任はあると思う。教師はいろいろ問題を抱えている現状を親や子どものせいにして嘆くだけでは、日本の未来の民主主義の危機だと思う。子ども達にさまざまな困難や危機が押し寄せている今、やはり教師の教育力の向上はますます重要になっていると思う。今こそ教師が、子ども目線の教育力をつけることが問われるのではないでしょうか

 子どもが安心して自分を出せる学級と学校づくりを           どんな教育力かというと、子ども達が安心して自分を出せる学校・学校づくりを提案します。心の中でいつ爆発するかわからない内面を抱えて不安な内面を教師はうけとめてやってほしい。どの子にも何気ない表情やしぐさを見逃さす、こまやかな感性を高める力量と子どもの発達の展望を持ってほしい。そしてむかつきは不安感を友達同士で話し合える場面をつくれる学級をつくってほしい。つまり教室のなかで失敗したことやケンカしてしまったことを隠さず話せること、そういう安心と信頼関係を結べる学級を保証してほしい。

  いつも子どものトラブルをきちんと子ども目線で耳を傾けて話を聴こう。そして事実をみよう。ふだんからなんでもないトラブルに対しても気を配っておく。そしてその時気をつけることは、

1、具体的な事実に即して考えること
2、広い視野に立ち、さまざまな角度から考える。物事の本質を考える(個々の事実をつ ないでいくと共通するもの、本質がみえてくる。それを見抜く眼力をみがくこと)
3、人々の生活、子どもの目線という立場に立って考える

 話を聴き取る際に気をつけることは、共感(子どもの気持ちをまるごと受け止める)、代弁(子どもの行動の裏の本当の気持ちにして言い換えてやる)、提示(ひとり一人に成長の教育的な課題をみつけてやり、提示していく)。トラブルのその都度メモをしていくと点が線となり、子どもの実態が見えてくる。個の高まりとともに学級会でも同じである。

  子どもも親も耳を傾けられるだけでほっとする。そして子どもの寄り添いながら、子どもの発達していける課題を提示しよう。人間というものは丸ごとうけとめられないと成長しようとしないものだ。子どもの自己発達の力に依拠しよう。子どもも親もできる少し高い目標が見えれば頑張れる。
  教師もまた、仲間とともに子どもを見る目の自己教育力に迫られるであろう。
  K子 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 6日 (水)

大人の「子どものSOSを読み解く目」

  私は、とある先生の言葉がとても気になった。「子どものSOSアンケート」で「部活と勉強に追われて自分の自由に使える時間がほしい」と叫びに似た状況に追い込まれている声を届けた。          
  しかし、現場の教師からみると、逆で「勉強する時間はじゅうぶんにあるのに、ゲームにのめり込んでいるから勉強時間がないのだ。コミュニケーションをとる力も育たないのだ」と。親もまた「勉強もせんとゲームばっかりして」と言う。そこに私は権力者と同じ視線を感じた。それこそが子どもの目線から子どもを理解しようとしない目線である。

  この夏休み明けの1日、宿題に悩んだ一人の中学生が自殺した。思いあまってあまりのこと、ほかに方法をおもいつかなかったのだね。

  勉強しなければならないということは、子どもは脅迫のようにずっと思っている。かわいそうなくらいそれは過酷な日本の教育の実態だ。なぜなら高校入学は常識であるし、高校を出ていないとアウトローな人生が待っていることはよく知っている。だからこそ教師や親は「なぜ子どもがゲームにのめりこむのか」という子どもの気持ちに心を寄せることが大切だ。ゲームにのめり込んでいる状態それこそが子どものSOSなのだ。寄り添うと子どもが、ゲームにのめりこむ気持ちが見えてくる。

 ゲームにのめりこむこの子は、英語がわからないかもしれない、入試の苦しさからにげているかもしれない。それは寄り添ってみないとわからない。アンケートによると、勉強がわからないという中学生の声とともに、学校の授業に対する不満は50㌫にも及び。私が予想した以上であった。それに気づかない学校。大事なことは何がゲームに向かわせるのか、それを言葉にして自分で対策できる子どもの思考だ。また自分の苦しさを伝えられる大人がいて、それを受け止める大人がいることである。今、子どもやそのまわりにはどちらもないことが多い。「勉強」してさえすれば喜ぶ親や教師にストレスを感じて、ゲームこそがそのストレス発散の場かもしれない。(私にそう言った子どももいた)ゲームはまた中毒性がある。依存症でやりはじめるとやめられない。

 ストレスは大事だ。ただし、それが乗り越えられるというスタンス内にあることだ。人間は機械じゃない。がんばるには、十分に休むことだ。自分の好きなこと、フリーでボーとし続けることも大事なのだ。そのなかで人間は自分を取り戻し、息を吹き返す。1ヶ月くらい学校を休みたいという子どもの本音はここにあると思う。それさえも許されないで、小さい時から本音を隠して、勉強ができて親や教師のいうことをきくよい子であることを演じなければならない。また、そういう価値しか知らない子どもにゲーム以外の方法で、ストレスを乗り越えがんばる力を大人はつけているのだろうか。

 教育基本法は、具体的に目の前にいる子どもをみる目から始まると私は思う。
                                     K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月13日 (日)

頑張らないで、お母さん!

 子ども目線に立つとダダこねる子どもの気持ちもわかり、時にはおかしくなり、また、いとおしくなる。私の子育ては、何気ない日常の自然の中で、子どもの見出す感動に感動したものだ。10歳ぐらいまで無条件に甘えさせると子どもは自然に自立し、本当にいい子になりますよ。そういう子は思春期にも、ハラハラするが見守っていると人間として困難を克服する力を発揮する子になりますよ。私はすでに成人した3人目にして実感しています。

 さて、子ども目線のためにと常に頑張っていたらしんどくなります。時にはお母さん目線のありにままをうけとめてほしいですよね。時には「あなたは本当にがんばっている」と肯定してほしいですよね。夫が忙しいというのが今の日本の働き方です。でも愚痴だけでも聞いてもらえるならそういう夫婦の人間関係をつくりましょう。その方が子どもの将来のためにも老後の夫婦のためにもいいと思いますよ。また、周囲に自分から子育てを分かち合う人間関係を作りましょう。このブログも参考にしていただいてうれしいです。

 次に子どもを育てているお母さんのための本を紹介します。
「子育て ハッピーアドバイス」 明橋大二著 1万年堂出版 980円
「おかあさんがもっと自分を好きになる本」 北村年子著 学陽書房 1470円
よしもとばななさんの「いるか」も面白いと香山リカさん(精神科医)が言ってます。私は彼女の本はよく読むので、彼女の推薦する本だから紹介しています。  K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 7日 (月)

「3才までは、たたかないとわからない」を子どもの権利条約から考える

 多くの大人は「子どもはたたかないとわからない」と体罰を肯定する。私の夫も「親父によく殴られた。」と言う。だが恨んでいる様子はない。殴られたけれども一緒に山や海に連れていってくれた楽しい思い出も多くあるようだ。このような「体罰」肯定の背景に子どもは「未熟」であり、「本能的な欲求」が強い。だから躾によって社会化することが必要だ。だからたたいてでも、大人に従うようにしないと社会に出て大変なことになる、特に言葉の通じない3歳まではたたかないとわからないという日本の伝統的な親心だと思う。日本のスポーツの世界にもある。また今問題になっている躾と称する子どもの虐待の温床と根は同じであると私は思う。

 近代の市民革命以来大人の男子に、次は大人の女子に個人の尊厳(独立した理性的存在、自己決定、自己責任)の前提として自由権・プライバシー権などの権利の主体行使、すなわちかけがいのない「個人の価値を持った社会的存在主体」を認められてきた。それが人権として市民権を得ている現在、大人になるために「3歳まではたたかないとわからない」は肯定されてよいのだろうか。日本で子どもの権利条約が批准されてもまだ日も浅い現状の中で考えてみたい。

 現在の心理学は、一人前でない子どもが世界でたった一人のかけがえのない価値を持った人間」として扱われ、自律的・社会的主体へ向けてきちんと成長するためには、「ありのままの自分を受けいれてくれる人間関係が不可欠である」ことを明らかにしている。
 「ありのままの自分」を受けいれてくれる人間関係とは、子どもが発する欲求(思いや願いや意見。泣いたり、だだこねたり、悪さをしたりといったさまざまな行動)に対して無条件にかつ持続的に「そうだったんだ、そうしたかったの、大変だったね」など言って肯定的かつ誠実に対応してくれる親や教師など身近な人との関係をいう。

 しかし、たたかないで3歳児でもわからせることができるのだろうか。できる。
 幼児期は言葉が未熟で自分の思いを大人に伝えることができない。そのためわがままや悪さにみえても大人はその思いを読みとって、対処しなければならない。つまり、大人視線でなく子ども目線に寄り添って「そうしたかったの?」とダダをこねている幼児が幼児なりに自分の心と折り合いをつけるまで待ってやる。常に待って、誠実に対応してくれる人間関係を体験してはじめて、子どもは泣いたり笑ったりして「ここにいていいんだ」という安心感や「自分は大切なんだ」という自己肯定感を持てるようになる。これが社会で一人前の人間として生きていくための必要な力、・・・何かに興味を持ってやってみたいという自信、ほかの人の気持ちがわかる共感、ほかの人にために何かをしようとする道徳性、自分のやったことに責任を持つ力など自分らしい考えや思いを持ち、行動する力を生み出す。

 振り返って最近の少年事件をみていると勉強ができてよい子は、実は自分を押し殺して生きている子なのだとみえてきませんか。本音でダダをこねるどころか、親の願いに自分を合わせて生きてきた少年達!ありのままの自分を受けいれられなくなっている人間関係のなかで、孤独と絶望の中で苦しんでいる。勉強はできても人とコミニュニケーションがとれない。共感する力がない。自分のした行動の大変さが見通せない。苦しいのを身近な大人に自分の方に顔を向けてもらう意見表明する力さえない。そういう人間関係をつくる力さえ発達させられてないのだ。自分らしく生きるためには「破壊」しかないほど追いつめられているのに、親も教師も気がつかない。また暴行という虐待が増え続ける背景に、劣悪な仕事の環境で大人の働く権利が侵されている。ダダをこねながら幼児なりに自分の心と折り合いをつけるまで待って、誠実に対応してくれる人間関係を体験させる心の余裕を大人が持てない。躾と称した八つ当たりの悲惨な体罰が横行する。人間として大切にされていない大人がイライラしてより弱い者へ躾と称して暴力を振るう構図がみえませんか。そこに大人の都合が見えてきませんか。

 いや、昔はそれでもうまくいったのになぜ躾と称する「たたく」のを否定するのか?
 昔はたたかれて傷ついても心を回復する場がたくさんあった。親身になってくれる近所の人や友達がいた。そして時間はゆっくり流れ、自然はいっぱいあった。それがみんななくなった現在、子どもは親に見捨てられては生きていけない。

 昔も今も体罰は、子どもの心を傷つける。子どもにとって痛みや恨みは残っても、なぜたたかれたかという理由はわかっていない。大人は自分の感情でたたいている。たえまない体罰は人格の発達を妨げる。また教育的体罰などありえない。古い時代の産物だ。

 3歳児であっても幼児のダダをこねる心に寄り添い、共感しながら自分の心と折り合いをつけるのを待つ大人の余裕は、子どもの発達を保障する人権を見通した大人の責任である。
   K子   

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年7月18日 (火)

「ことば育て」は「こころ育て」・・・学校ができることは?

 企業が終身雇用制を止めて久しい。規制緩和で働き方がいっそう厳しくなり企業は儲けをむさぼっている。子どもを育てる親達は安定した雇用が幸せを運ぶと思い、高学歴を求めて「勉強」に子どもを追い立てている。つまり70年代の高度経済成長で「高学歴が安定した未来を約束した夢」を、今だ子どもに向けて追いかけてさせられている。学力テストの復活や学校の規制緩和はいっそう親たちを不安にさせる。

 親達は「よい子に育ってほしい」と願い、それが親の理想の押し付けであることに気づかない。泣きわめくことを禁じて、おとなしくけんかもしない子をよい子だと勘違いする。感情を出さない子を「がまんづよい子」と勘違いする。子どもは「勉強ができて、ききわけのよい子」でないと愛されないことを学習していく。親の前で子どもたちは泣きわめくことをしなくなっていく。それがどんな人格を育てていくかは最近の少年事件をみるとわかる。勉強ができる子が人格もよいと錯覚され教師もまたそう思いがちだ。今や問題の見える子だけが問題でないのだ。

 国連の子どもの権利委員会は、日本の子ども達の状態を「高度に競争的な教育制度のストレス」で「児童が発達障害にさらされている」「十分なフォローアップが今だ行われていない」と批判している。それが次々に起こる「不可解な少年事件」となってあらわれているのだ。日本の子どもは今、人間として一番大切なコミュニケーションをとる力、自分の気持ちを言語化すること、ましてや伝えるという「ことば育て」が生活のなかで崩壊しているのを感じる。「こころ育て」の崩壊である。

 子どもというものは親との「言葉」のキャッチボールを受容、共感されはじめて自分の気持ちを見つめ「言葉」にすることができる。共感的な言葉かけにより、感情が社会化(言語化)されることで感情のコントロールができるようになり、「思いやりの心」も育つ。自分を肯定できると人をも受け入れられる。「ことば育て」は「こころ育て」なのだ。また抱きしめられることで否定的な感情も安全な感情として抱えられる。否定的な感情が受容されない子どもは、感情の社会化(言語化)が困難になる。感情を封印することで、「よい子」として適応するが、思春期になって危機を迎えることになる。三つ子の魂は時間を忘れ、親や友達と五感と使ってたわむれることで、「実感を伴った言葉と心」を育てていく。(近年、脳医学の発達で実際に検証されている。)そういう日本の子どもたちの状態が、国連のいう日本の「児童が発達障害にさらされている」ということだ。

 過度の競争社会からの苦しみをゲームのように殺人という行為でリセットすることしか思いつかない優等生の子どもたちの困難を、キレたり破壊的行動を起こすという形でなく、仲間とともに言葉で気持ちを伝えあうという「生きる権利」を学校教育がつけることができないのだろうか。学校が子どもに寄り添い、個々の子どもの発達の課題を見つけ、発達を援助していくことによってそのような力をつけられないだろうか。唯一誰もが集まる学校の教師の重要な課題と考えられないだろうか。

 子どもの発する言葉は、「死ね」「うせろ」「きしょ」「きも」「うざ」、一昔前は「むかつく」だった。このような言葉でしか気持ちを表現できない子どもの叫びに共感する大切さを知ってほしい。「キレル」子どもが何よりも奪われてきたものは、「負」の感情も含め自分の思いを受け止められてこなかった関係性である。なによりも子どもたちに自らの感情をキレたり破壊的行動を起こすという形でなく、仲間とともに言葉で気持ちを伝えあうという「生きる権利」を保障していくことが大切でないだろうか。このような「負」の感情や行動を見据える教師の力量が今、ますます大切であると思う。
 つまり教師は「発達援助職」として、教育基本法のいう「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身共に健康な国民の育成を期して行われなければならない」ということの現在版の課題ではないだろうか。

 自分の気持ちを伝えたり、相手の気持ちを読みとったりすることが苦手だから、うまく伝わらないためのトラブルも多々ある。このトラブルが大切である。教師は、まずトラブルを起こす子の言い分やまた相手の子の言い分を事実にそって十分に聴いてやってほしい。子どもを外側から、教師の常識からでなく、その内面的な意識や感情、世界感覚から共感的に理解していく営みをしてやってほしい。しかしどうしても教師は子どもに向き合った時に教師の内部に発生してくる感覚や情動や感情が管理的になってしまう。だから絶えず自分の気持ちを吟味しながら聴くことである。自分自身の感じ方や考え方が子ども目線であるかを自己吟味することは不可欠である。子どもといえども腹の立つ暴言もじっと耳を傾けてほしい。

 子ども目線で子どもと向き合っていると、暴言や暴力の裏の子どもたちの「声なき声を聴き取ること」ができる。そこで教師は子どものもやもやとした情動から社会化された言葉として暴言の裏の「心の声」を言葉にしてやる。しかし援助は重要だが、「子ども自らの感覚や感情への気づきを発達援助する」ことである。発達の主体は子どもであるから今「この子の発達の課題は何か」をみきわめる力量が求められる。子どもの課題としてコミュニケーションスキルとして考えさせる時もあるだろう。課題の選択肢から選ぶのは子どもである。また子どもの言い分から、瞬時に正確に事実の本質を分析する力も要求される。効果は即なくても、それらの点を結んでいくなかでより高い援助も組む事もできる時がくる。話を聴くなかで学校の管理の改善なども出てくるだろう。

 学校で吐く声や破壊的な行動を共感され、寄り添い受け止められることで子どもたちは落ち着いていく。そして納得しながら発達を喜びにしていく。教師もまた物事の本質を見抜き、柔軟に創造的に対処する力量を蓄えていくだろう。軽度の発達障害の子どもたち子が喜んで参加する授業が誰もがわかる授業であるという教師の反省もみえてくる。教師の成長もまた要求されることになる。問題のある子が育つことは、全ての子が育つことである。

 さらにもうひとつ大事な教師の発達援助は、子ども集団に依拠していることである。なぜなら真に子どもが発達援助しあい、発達するのは子ども集団である。これは経験的に、人間として一番大切なコミュニケーションをとる力、自分の気持ちを言語化すること、ましてや伝えるという「ことば育て」は子どもたちの集団が必要だと実感する。だから教師の仕事の下請けでなく主体的な子ども集団を作り上げるのが、発達援助職としての教師のもう一つの課題であろうと思う。身の回りのトラブルを暴力でなく、本音で何度も話し合い自分たちの合意をつくりあげていくことは生きた言葉を学び、生きた心が育つ。仲間とともに言葉で気持ちを伝えあうことを学ぶことは、特にこの緊張した国際社会を乗り越えていくための力としても大切なのではないか。ささいなトラブルでも学級で何度も話し合い、教師は根気よく子どもたちの合意を見つける援助をしなければならない。決して教師の常識を押しつけてはいけない。1年生でもできる。
 子どもたちに仲間とともに言葉で気持ちを伝えあうこと、困難を切り開く力、生きる権利を保障していく課題として、多忙な現場の教師たちが「希望」を取り戻してほしいと切に願って書きました。
      K子
【参考文献】
教師の子ども理解と臨床教育学   田中孝彦  群青社2000円
安心という癒しを求める子どもたち 人見一恵 郁朋社 1050円
kネット事務所やインターネットhttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31452708でも買える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 4日 (火)

これって「携帯依存症?」

 自宅を出た。ふと「携帯は?」(持っているか。)と気がついてバッグの中を探す。「な~い。」とたんに不安になる。6年ほど前は持ってなかった。別になくても困ることはなかった。それなのにこの不安ぶりは何だろう。これって「携帯依存症?」

 7年ほど前、家庭訪問で家がわからなくて学校まで戻って電話したことがある。この時携帯を持っていたらいいなと気がついた。ちらほら職場の人達が持ち始めた頃である。だからもちろん、電話の代わりである。いろいろな機能がついていても覚える気がない。もうすでにパソコンを使っていたので、また新たに覚えるのはしんどいと思っていた。
 ところが暇な時にゴチャゴチャ触っていたらメールができてしまった。若い人ほどダウンロードする意欲はないが内臓の中の着メロや画像も変えられた。でも私は電話として使いたい。

 カウンセリングの講座でこんな実話を聞いた。電車の中で高校生が隣どうしに座ってメールで会話していた。おかしいと思ってその先生が尋ねた。答えは、面と向かって会話するのは疲れる。同じ言葉でも微妙に息づかいや表情が出る。それを見ながら会話をするのは疲れる。メールはその点とても楽なのだそうだ。

 私は携帯依存症でないと思っていた。だのにこのうろたえ様は何なのだ。携帯がなくても後で見たら着信記録でわかる。後でかければいい。急ぐことでもない。人ごみの中へ出かけるから倒れて自分一人で救急車を呼ばなければならない事態は考えにくい。でもこの不安は何なのだろう。これも携帯依存症?  K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月13日 (月)

かわいい!

  お隣のやっと2歳になった女の子が、我が家の亡き犬の写真を見て
「かわいい」
と言ったのが聞き取れた。この子はまだ言葉にならない前段階で、大人にとって意味不明な言葉で話しかけてくる。それなのに聞き取れることができた。「かわいい」が国際語として通用するということを聞いてびっくりしたが、2歳の子も喋るのだから当然かなと納得した。

 それはアニメを通じて広まっていったそうだ。この「かわいい」は垢抜けしているような使われ方だとテレビは放映していたが、日本ではその使い方が進化しているらしい。もともとは幼い者を「いとしい」という気持ちを込めて使われたそうだ。それから転じて目でみてかわいい、きれいなものを表現するのに使われている。ところが女子高校生達は何でも「かわいい」をつけるのだそうだ。本来のかわいい、をはずれてグロテスクなものにも「かわいい!」と言う。たわしを見ても「たわカワ!」と一見無邪気に笑い合う。面白いものを見ても「おもカワ!」と表現する。そこには個人特有の感じ方の表現がない。

 それは一昔前「ムカツク」が自分にとっていやなことや微妙ないやな気持ちをひっくるめて使われたのに似ている。情動的な気持ちが先走り、多様な言葉の表現を面倒がり、またその時の気持ちをうまく表現する語彙を知らない子ども達の実態もあった。一種の流行みたいのものもあった。

 だが、「ムカツク」と違う面は子ども個人の内面だけでなく、今の子ども達の友達とのつながり方の困難をあらわしていると思う。女子高生だけでなく、小学高学年からの女子にとって「友達ってビミョウー」な関係にある。友達から仲間はずれになるのを恐れ、グループのなかで居場所を固定するため必死だ。トラブルのを避けたいためとりあえず「かわいい!」って話の話題をつなげ笑いあっている面もあるようだ。それが進化を促し、本来のかわいくないものまで「かわいい」をつけ、話題を共有しあっているようだ。女子高生達の「言葉遊び」で友達とつながる知恵でもある。生きにくさを生きにく知恵だと思える。
          K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月30日 (月)

「誰もがスペシャル」・・・心を生み出す脳のしくみ

  私はここ5~6年前から「脳」についての知識にのめり込んでいる。障害のない大人の脳を覗くための映像化の技術(MRIやPTE)が発達したため、今まで分からなかった脳と心の動きがいろいろわかってくるようになった。そのため教育学者と心理学者の論争に終止符を打つような事実がわかってきたという。また心を生み出す脳の仕組みの方向も見えてきたようだ。そして私は「誰もがスペシャル」というのは、本当だと納得するようになった。

  脳は物質の集まり(脳細胞、脳神経「ニューロン、シナプスなど」)でそれが働くことが心である。つまり、「脳」は物質の集まりで「心」はその働きである。簡単に言うならば、脳内には多くの神経伝達物資があり、これが運動の指令、記憶、感情などを支配している。脳のなかにあるニューロン・ネットワークの発達が心の発達なのである。これらの物質の支配を測定することが始まったばかりという。
(脳の中の物質の集まりが心を生み出しているなんて、情緒がないと怒られそうですネ)

 よく言われるのに、心の発達には「生まれ」か「育ち」、つまり「遺伝」か「環境」という問題がある。しかし、そういう硬直した考えでなく、わかったことは、「動物が学習できるのは、外界での経験に基づいて自らの神経系を改変できるから」で、そうできるのは「経験それ自体が遺伝子の発想を変えうるからである」ということです。
遺伝子にはたんぱく質の暗号のほかに、作り出すタイミングや量を決める調節作用がある。それは生まれる前から決まっている設計図ではなく、生涯の各段階を積極的に調節する、複雑でダイナミックな自己制御レシピである。ニューロン・ネットワーク(つまり心の発達)は、前もって指定された青写真によるのでなく、環境の影響を受けながら少数の遺伝子が行う自己組織化による。遺伝子は選択肢を提供し、環境はどの遺伝子が選らばれるかに影響を与える。遺伝子は運命の硬直した支配者としてでなく、豊かな機会を提供するものとして理解しようということだ。

 つまり人間が人間になるのには固有の少数の遺伝子があるからであり、ゲノムの発見とかDNAとか言われているように、それがあるために人間になり、家族と証明される。しかし遺伝子と環境の関係で、神経系はその時のその人間の固体の独自性と可塑性があるから決して心は同じにならない。よく言われる「蛙の子は蛙」になり、また「とんびが鷹を産んだ」というようなこともありうるがよくみると心は親と違うのだ。よく似ているようでも一卵性双生児さえ、心は同じでないということがわかった。人格とは簡単に言えば、その人独自の感情であり、考え方であり時代に左右されるものであり、それらを総合してその人の人格ともいう。だから親と子どもであっても人格的に違うのだ。「誰もがスペシャル」と言われるゆえんは、生物的にも証明されつつあるのだ。話はとびますが、ここらへんに環境つまり社会とキレル子どもや少年事件、増える老人や成人の犯罪と心の関係を考えるヒントがありそうです。

 そして、大人になっても上記のようにして脳は発達するということである。だから若い時と違う性格になることもあり得ることだ。また今までは脳細胞はどんどん死滅するのは避けられないような話もあったが、そうではなく発達するそうだ。脳を使わないと老化してしまう一方であるそうだ。「もう年だからと」あきらめる筋はないようだ。

○参考文献  心を生みだす遺伝子  大隈典子訳  岩波書店   
  記憶力を強くする  最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方  池谷裕二  講談社      どの子ものびる脳の不思議  脳生理学者の子育てメッセージ高田明和  かもがわ出版
                 脳シリーズはまた続けます。  K子  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月21日 (土)

子どもに意見だけ言わして虚しい?        (子どもの意見表明権2)

 さて、前に子どもに意見を言わすだけ言わして虚しいという意見があった。 
もし、子どもからそういう意見が出たらそれだってすばらしい、十分子どもの意見表明です。大人は子どもの想いのどこがそうなのか、聴きとることによって次のステップを考えあうことができます。意見を聴くことは一度で終りでないのです。仮に意見を言って実現しなくても十分に聴いてくれる大人がいるとわかれば子どもは、自分で解決する力をつけていくものです。
 もし、実際に聞かないであれこれ考えて終始がつかなくなるのでないか、と考えるならばこれは子どもの尊厳を大切にしていない大人の傲慢です。

 歌手のTM・ディボレーションの西川貴教さんのファッションや歌に何となく心魅かれる私ですが、彼のトークをテレビで興味深く聞きました。(彼はアメリカにも歌の活動を広げている)
 彼は小学生の時、父母が公務員ということや眼鏡をかけていたことで「ガリ勉」を演じていた。中学生の時、自分がやりたいのはバンドだと気づいたと言います。それを高校生の時学校で禁止されもめた。なんどももめ、ついに学校の体育館でやることに成功した。ただし、学校側は「もし、誰か一人でも騒いだらただちに中止」という約束でした。当日奇跡的にとも言えるほど茶髪のヤンキーの生徒達は一糸乱れず、楽しくバンドの歌を聞いたということです。管理職と生徒指導の教師は途中でいなくなりました。残った教師達もいて、その教師達も結構体をゆすってリズムに乗っていたのが印象に残っていると語っていました。
 大阪へ歌手になるために家を出る時、それまで大反対だった父が軽トラを運転して荷物を運んでくれたそうだ。その間、ただの一言も喋らなかった父だったが自分を認めようとする父の気持ちが痛いほどわかったそうだ。
 大人社会と大人達が子ども達の意見を頭から聞かない、聞いても暴力や権威で押しつぶす。或いは、理屈抜きに否定する。まだ早いと話を聞かないのが現実です。
 特に教師は教育するために「指導」しなければならない。だから「子どもは何をするかわからない」「まず、型にはめてからその枠内で自由にさせる」「調教と同じ」という発想になりやすい。
 小学生の頃は友達もなく、人と喋るのが苦手な西川さんだった。その「歌手誕生」にいろいろあったに違いないが、彼を認めてくれた場と人があったからこそ彼は成長したに違いない。
 
 子どもにも人権がある、大人のパートナーと信頼するならば失敗もまた発達過程として受け止めることができる。貧富の差が広まってきたことが実感される日本の大人社会で大人が孤立し、それゆえ子どももまた孤立している。受け止められる場、自分をありのまま表現してよいという「意見表明」は日本では特に必要でないかと思う。子どもは受けとめられてこそ成長するのだ。   K子

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 7日 (土)

児童の権利を受け止める学級づくり

 今年は「子どもの権利を受け止める学級づくり」がますます求められる年になりそうです。そこで、k子なりのメッセージをブログを通じてお届けしたいと思います。前回よりの続きをお読みください。 

 まず、荒れている子どもの言い分を事実として聴き取り受け入れ助け出さなければならない。けっして批判、説教してはならない。寄り添い、共感があるのみである。なぜなら一番荒れている子が、教室の中で一番の被害者だ。
学校が学力で差別し、きまりで締め付け、管理すればするほど子ども達はより弱い子に攻撃して自分を守る。子ども達はより弱い子に責任を転嫁し、上意下達といういじめがまん延している。だからその子を排除してもその学級の子ども達は、一人ひとり非常に傷つき、すさんでいる。また排除することは教育ではない。
  荒れの中心の子はまさにキレて、居直って暴言、暴動として「ねえ、こっち向いて。助けて!」と大人に意見表明しているのだ。広汎性自閉症の子はなおさら人の気持ちが読み取りにくいため、みんなのイライラのはけ口になる。それは教師の視点からみていると決して見えてこない。いじめの原因の上意下達は、最上段に文部科学省がいる。教師は子どもの 側の視点に立ち、きちんと発達させるために知恵をしぼらなければならない。

 今まで教師は、ある面、との様みたいなふるまいもできた。しかし、それでも家庭や地域の倫理が存在していたから通用した。でも社会は殺伐とし貧富の差が広がってきたと新聞も報じるようになってきた。みんなが生きづらい世の中になっている。だから一番荒れている子が過ごしやすい学級をつくることが、どの子も過ごしやすい学級づくりということに気づいてほしい。気持ちを180度転換して「児童の権利条約」の視点から解決をさがしてほしい。親もまた生きづらい。育てることに悩んでいる。親に対しても親の悩みを共有する視点を持たないと「荒れ」の解決は難しくなるでしょう。
        2度も学級崩壊の後の学級を担任したK子から

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学級崩壊は子どもが悪い?

~~~学級崩壊は、「荒れ」という形をとった大人への子どもの「意見表明」である。~~ どんな意見を表明しているのか?                                 それは、教師が耳を傾けない限り見えない。                           「子どもの側から荒れをみる」という視点に立って、寄り添い共感してこそ見える。                       また「荒れ」は教師の指導力不足ではない。                

  学級崩壊になると「あの子がいるから」「あの子の言葉、行動」のすごさを取り上げがちだ。ともすれば子どもの言動にとらわれ、きまりや「こうあるべき」ということに従わないことを問題行動としがちだ。しかし「また悪いことして・・・」と見るのでなく、児童の権利という視点からどの子も無条件に受け止めて甘えさせてやってほしい。でもあんな悪いことをして 

寄り添い、共感できるか」という声が聞こえてきそうだ。

  子どもは行動や言葉が未熟な発達途上人だ。荒れて暴言吐いて、失敗してもよい。それを発達させてもらう権利がある。

ところでますます忙しく生きづらい教師の現場だ。子どもはもっと大変なはずだ。それをうまく伝えられないで荒れることによって「意見表明」をしているのだ。子どもには意見表明権がある。また子どもは生存権と同じくらい「甘える」ことが人間の成長として大切な存在なのだ。(最近の脳医学の発達からわかってきた。また心理学の人間論でもそうである。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月15日 (水)

はじめまして

今日からブログを始めました。よろしくお願いします。

| | コメント (1) | トラックバック (0)