キムタクの「目」と憲法
キムタクこと木村拓哉さんの「HERO」が7月ごろに復活すると言う。(2001年3月19日放送終了)第10話、木村拓哉さんこと演じる検事久利生公平は、女性キャスターへの暴行を警察で自白した被疑者を証拠不十分で不起訴にする。しかし再び彼女が襲われる。被害者も刑事も犯人は別人だと気づきながら、警察のメンツのため被疑者を追いつめ、自殺させる。納得できない久利生検事は、キャスターから犯人は別人だとの証言をとり、刑事に詰め寄る。そして言う。
「俺達みたいな仕事ってな、人の命を奪おうと思ったら簡単に奪えるんだよ。あんたら警察も俺ら検察も、そしてマスコミも、これっぽっちの保身の気持でな、ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか!」
決してこぼさぬ涙をたたえたキムタクの強い怒りの「目」は立憲主義の象徴である。
「簡単に人を殺せる」ほどの力=公権力に制限を課して濫用を防ぎ、国民の人権をまもる、その手段として憲法を定める。私達は「大憲章(マグナ・カルタ)」や「フランス革命」を学校でならったのは、そういう意味の歴史だったのだ。憲法は「国民が守るきまり」でなく、「国民みんなで、権力を拘束、制限する大切なきまり」である。憲法は権力の横暴を許さないように「権力こそが守るきまりなのである。」(憲法尊重擁護義務99条)
「誰もみんな最初はそう思うんだ。でもな現実はそうはいかないんだよ。そんなのただの理想だよ。」と反論する矢口刑事。誰もが組織のなかで憲法99条を守れるほど強くいられないのが現実だ。
だから公権力の不正を絶対に許さぬ「目」「けっしてこぼさぬ涙をたたえた強い怒りの目」を支配される側にいる私達の中に育てなければならない。そのためには「公権力怖さ」の具体的なイメージを感じとらなければならない。そのために「HERO」を見よう。「あの被疑者みたいにボーっとしているとヤバいかも。」と感じることができたらそこに憲法の存在意義がある。ちょっと大げさかな?
つまり私達の権力観を改めなければならない気がするってことだ。公権力を少数者が勝手に行使しないようにみんなで物事を決める「国民主権」。公権力が犯してはならないこと〈=人権〉のリストを揚げて違憲審査制で保障する「基本的人権」。国家のために公権力が国民の命を犠牲にしてはならないと命じる「平和主義」。憲法は公権力にしてもらっては困ることを定める法である。
だが私も含め多くの人にとって憲法は、生存権保障のように国=公権力がしてくれることを定めた法であると思い、国は人権を与えてくれ、私達を護ってくれる頼もしい「正義の味方」だと感じている。憲法は国に縛りをかけるものだと教わらなかった私達である。私達はまずこの権力観を考え直さなければならない。156年も前から「人権」という意識のあるデンマークなどに比べて人権という「意見申し出」の歴史が浅い日本では、みんな同じ意見であることが無難の世渡りである。しかたないか!でもこれからは変わろうよ。私も含めて歴史を作るのは私達なんだ。世界の歴史から考えて、公権力に都合のいい憲法は憲法でないのである、と憲法学者の田村理さんの意見に大いに賛同した憲法記念日でした。 K子
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