イマジン・想像力
新聞に、小泉元首相が「政治家は使い捨てである」と言ったことが載っていた。ならば大企業のための教育の手先の先端にいるのが使い捨ての校長である。いじめ問題や未履修校長はロボットどころか、政府の教育方針を忠実に遂行するために派遣されたマシンと思わなければやっていけないだろう。権力の先端にいる小泉元首相は使い捨てと割り切り、国民の批判というストレスで潰されそうになりながら、アメリカと大企業の要求の実現に頑張った。テレビで、家に戻れば普通の父親である、と息子の光太郎君が笑って述べていた。
そこでいつも私は、誰が悪いのかと悩む。
年金を減らし、病院にかかる負担を増やしたら、老人はどうなるのか、国民の具体的な事実、状況や教育への「成果指数・数値目標」導入するとどうなるかどうしてわからないの?この施策がどんなに国民に非人間的なことを強いるのかを察することができたら、行うことができないであろう。そこに自分の立場や地位を守るのか、人間としてできないというヒューマニズムに立脚したイマジンが働くかどうかで分かれるのかな?と悩む。心理学を学習してからわかるようになったのだけど、ヒューマニズムとしてのイマジンは生い立ちからくる人格も関係することもわかってきた。環境としての生育歴や教育が、国民を不幸にすると見通せる人格の分かれ道かな。夫に言わせれば「あんたは甘い!」悩むところでないところで悩むそうだ。 K子
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