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2007年4月25日 (水)

「なんで学力テストに反対するの?」

学力テストの裏にある国の想いは、国民の想いと違うのです 
 自分の子どもの「学力」を知りたいのに、なぜ反対なのかと思われるでしょうネ。学力の調査は必要だという人もあるでしょう。また学力テストだけをみていたら、これは私達に関係ないと思われる方もあるでしょうネ。でも必要と思う人も関係ないと思う人も含めて、裏にみんなの思惑を越えることにテストを使おうとする国の流れがあるのです。今でさえ過度な競争教育です。国連からも日本は過度な選別と競争で子どもが発達障害を起こしていると勧告を受けているのですよ。過度な競争は子どもの心を育てません。
 今、憲法を変えて軍隊を持って外国で戦争ができる国にしようと改憲手続き法案が、衆議院を与党だけで強行採決しました。私達の暮らしを含め、日本がどういう国に向かわされているのかとすべての人に関係があるのです。日本では、新自由主義と新保守主義の二つが同時に進行しています。どんな風に私達の暮らしと学力テストと関係があるのでしょうか。

戦後の日本の教育は 大企業の要請の学力偏重教育
  戦後の少しを除いて日本はずっとテストの競争社会でした。ずっと大企業の要請にあった教育でした。私もつらい受験を経験してきました。今も昔も大学の格差があり、高校の格差がいっそうひどくなっています。それを義務教育の小学校からしていこうとしています。なぜ政府はこのようにしていくかは訳があるのです。バブルがはじけて大企業が生き残るためには、企業の終身雇用をやめ、難しいことを考える数パーセントのエリートだけでよい。昔のように誰も学力をつけなくてもよい。今は技術の熟練でなく操作だけでよいから頭を使わなくてもできる、と大企業がいっています。そのための提案がゆとり教育というのでした。そのため日本は世界の学力テストが下がった。学力の低下と人々が騒ぐからそれを世論の動きに合わせて政府はいろいろ改革をしようとしているのです。でも政府は本当に国民みんなの学力を上げる気はないのです。だまされてはいけません。それは私達の暮らしがくらしにくくなっていくことと関係しています。

新自由主義とは
  新自由主義とは弱い立場のある国民をカバーするための規制を緩和し、資金のたくさんある人が得しやすい政策を政府がとることです。構造改革とも言われています。アメリカ生まれの考え方です。公という国が、弱い立場の人たちに福祉という格差がつかないように出していたお金をどんどん削ります。例えば、母子家庭に母子加算や老齢加算の廃止、老人の医療を少なくしてあげるのも国がフォローしてお金を出していました。定額控除などわずかでも国民にとって大切な税金返還でした。しかし国は福祉にお金を出さないで法人税をまけてやる大企業減税、大資本家減税(証券優遇税制)など大企業優遇の制度にしていきつつあります。05年税の負担率、富裕層の所得税負担額が所得3千万円超5千万円以下の層より低くなったとその逆転ぶりが朝日新聞に報道されていました。
  そのため国民保険が払えなくて病院へ行けなくなったり、生活保護を申請してももらえないで餓死したりする人もこの日本で起きるようになりました。70年代から80年、一億総ホワイトカラーと言われたように日本に貧しさがなくなったと言われた時期もありました。でも今は税金を国民のために使う日本でなくなりつつあるのです。そのため格差社会と言われるように貧しい人とセレブと言われる人々が生まれつつあるのです。働いても働いても貧しい「ワーキングプア」という言葉も聞かれるようになりました。「ネットカフェ難民」というものあります。4月からまた国民年金の金額があがります。参議院選が終われば消費税16㌫にあがることが囁かれています。

学力テストを現場の教育の「成果」として使う
  そして「教育」も郵政民営化のように自由な競争のもとにおこうとしています。明治以来、公教育として希なる就学率を誇りました。欧米に追いつき近代戦争のためには国民みんなに読み書き、集団行動が大切でした。それをやめるというのです。学力テストをするのに大手の受験産業に学力テストに96億円もの税金を投入してもうけさせます。学力テストは私達が暮らしにくくなっていくのと同じ根っこにあるのです。
  学力テストという成果でお金を配分し、教師を競争させ市町村の学校に序列をつくり、自由競争だからテストが悪くつぶれる学校があってもいいということです。つぶれる子どもが出ても罰を重くすればよい。もはや憲法にあるような平和的な人格を持った国民を育成する「公としての教育」はないということです。そこが子どもの実力を知りたいという人々の願いとすれ違うところです。それなのに国は矛盾するように教育を手放さないで心を縛っていこうとしています。それが新保守主義といわれるもの、それだけ教育は大切という裏返しだと思います。

日本の新保守主義
  昔、日本は天皇の赤子として命を捧げることが国を守ることだと世界を相手に戦争をしました。この時教育が大変な強制力をもって戦争に向かう国民を養成しました。
   今は、国が教育にお金を出さないのに、心を国のためにと変えていこうとしています。教育3法案で政府は規範が大切と子ども達に愛国心を植えつけるように言っています。「お国のために命を捧げる」という美しい国づくりとも言っています。学校では「心のノート」という愛国心と受けつけるさきがけになるような副読本を数年前から配っています。先どりして愛国心を通知簿につけていた学校もありました。道徳を科目にして評価しようという話も出ています。昔とよく似てきています。すでに憲法の戦争放棄している9条をを変えた暁の用意は進められています。昔とそっくりでないが、昔のように戦争へ進む準備が進められているのです。国が地方にお金を出さないで放るため地方格差が生まれているのに、国が県、市教育委員会に強力な指示命令系統を下す法律も準備されています。大きな視野でみると国が教育を引っぱっていくのは危険であるというのは、歴史が証明しています。
   憲法を変えるための手続き法案が参議院で審議に入っています。憲法を変えて日本がアメリカの傘下のもとに再び武器を持って海外に戦争する国にする憲法改正手続き法案」が新自由主義と同時進行しています。この愛国心は、真の愛国心でなく他国を蔑視し、自国を大変持ち上げ優越感を植えて戦争準備へもっていこうとする考え方です。そうした動きの見え隠れとしてこの頃、よく耳にするのが靖国神社に首相がお参りするだのしないのだの、従軍慰安婦はいたか、いないのです。また日の丸君が代について東京都ではたくさんの教師達が歌わなかったことで罰を受けたとかいう話があります。それが新保守主義と呼ばれているものなのです。

憲法を変える手続き法案と戦争に行くのは、どんな若者?
  そして誰が戦争にいくのでしょうか。学力テストで負け組になった人々を国のために役立つようにし向けるのです。まさにアメリカがそうです。負け組となって戦争に行くのは、貧しい白人や黒人です。間違っても小泉さんの息子の孝太郎君は行きません。昔もそうでした。同時に戦争をするということは「人権」が制限されるということです。普通の人々も不自由に巻き込まれることです。新しい憲法草案を読んでも非常事態という名目で個人の命よりも国の政策が優先されるのが想像されます。テロも起きるでしょう。
  21世紀です。戦争なら殺人も許されるはずがありません。世界の大きな流れは日本が持っている憲法9条です。それなのに逆に戦争をする国にしようとしています。今、国民は戦争を必要としていません。きっと昔も少しずつ法律が変えられて気がついたら戦争に反対したら牢屋行きとなっていたのでしょう。母はどんなことがあっても戦争だけは2度とイヤと言いました。今はそうなる前の綱引き状態でないでしょうか。女優の渡辺えり子さんは「父親が戦争であわや命を落とすところだった。父の友達は家庭を持つ幸せを知ることなく亡くなった。今私があるのは父親が生き残ったからです。だから戦争は反対です。」と述べていたのに感動しました。戦争は命をつなぐことにも関係あるのです。

真の学力とは?
  今の日本の憲法96条に憲法を変える手続きが書いてあります。「憲法の改正には各議員の3ぶんの2以上の賛成で国会がこれを承認し、国民に提案してその承認を経なければならない。憲法には特別の国民投票または国会の定める選挙に際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」、と書いています。
  でもその過半数が国民のほとんどの人が投票したうちの過半数なのか、例えば20㌫の人々が投票したうちの過半数なのか、そこに書いてありません。それで今、それを決めようとしているのが衆議院を強行された手続き法案というものなのです。それの問題の一つに投票率が少なくてもいいとしていることです。でも憲法って国のあり方を決めるとても大切なものです。それを少数のパーセンテージ確立だけで変えていいのでしょうか。それで反対の運動が起きているのです。憲法を変える手続きを「決めてくれ」と要求したのは国民の側ではありません。政府側からの要求なのです。だから知らない人も多いのです。政府にとって知らない人が多い方がやりやすいことです。みなさん、知っていきましょう。

  昔なら天皇や国王や幕府が法律を自分達の都合のいいように作ることができました。今は、選挙で選ばれた人々が国会で国民の代わりに政治を決めていきます。だから選挙が大事になります。戦前では税金をたくさん納める男子しかありませんでした。自由民権運動の普通選挙運動が起こって男子に権利ができました。でも女子にはありませんでした。それ以前、欧州では革命で命を賭けて国民が国という王権と闘いました。日本はそういう世界の人々の流れにやっと沿うことができたのが戦後です。長い日本の歴史のなかでほんの60数年、国民みんなが自分のための政治を実現してくれる人を選ぶ大事な権利を獲得しました。

  憲法第1条には国民は権利の主体であると書いています。国民は国の主人公だから国民が安心して暮らせるようにおおいに意見を言って行かなければなりません。言わなければ伝わらないのです。
  憲法99条には、憲法尊重擁護の義務というのがあります。そこには国会議員がその義務を負うとなっています。憲法を変えようと国会議員から出る方がおかしいのです。そうでなくて国会議員に私達が暮らしやすいように国の政治をしてもらう権利があり、国会議員はそのために働かなければならないのです。

   学校で覚えたことがすぐはがれるというのが日本の学力です。どんな国にするのか、人間何歳になっても国民ひとり1人が物事を知って賢くなることが問われている。これが学力というものではないでしょうか。   K子

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2007年4月19日 (木)

再開された学力テストの真のねらいは?

再開される学力テスト・個人情報違反の重大な問題が!
   前回に書いたように、国際学習到達度力テストの結果が悪かったことがきっかけで、学力テストが、2007年4月24日全国一斉に小学6年と中学3年に行われることになりました。抽出ではありません。これから毎年行われます。学力テストの実務は民間の受験産業に委託します。NTTデーター(旺文社)とベネッセ(進研ゼミ)です。税金のお金を49億円も払います。問題になっているのがテストに個人名やテストに関係ないと塾に行っているかなど92問の家庭環境調査の質問項目の記入があるようです。塾勧誘の資料として受験産業がのどから手が出るほど欲しい資料が政府の庇護もとに民間企業に渡るということです。個人情報が握られるので憲法違反とも言われています。
   本来なら全国一斉にテストをしないで、担任の教師がテストを採点し、ひとり一人の子どものつまずきを見つけ、そのために再び理解させる手だてを考えるものです。それには教師に放課後、ゆとりを与えなければできません。そうしないのは別のねらいがあるからです。なぜなら教育もまた他の産業と同じく規制緩和をはずし、「新自由主義改革」にしようとしているのです。要するに国鉄や郵政事業と同じく国が金を出さずに競争によって学力もあげていこうとするものです。どの子も力をつけていく「学校の公教育」という使命をはずそうとしているのです。
   義務教育の学校を序列化、大変な競争と格差に学力テストを使う?
それは、どのようにしてそれは遂行されていくのでしょうか。次のようなセットで遂行されます。
   第1に、子ども同士競争意識の涵養のため学力テストを実施するということです。今でさえ日本の子どもは過度の競争のために発達障害を起こしていると国連の子どもの権利条約のDCIから勧告を2度も受けているのに・・です。「切磋琢磨が必要」だって?この国の大臣はどこをみているのでしょう。
   第2に学力テストと学校選択制のツウーセットで、親の学校選択の指標に学力テストを使うというのです。イギリスのサッチャーがやっていた「教育バウチャー(予算配分)制度」導入です。学力テストがよい子どもの学校に補助金が降りる制度を入れようとするものです。その配分の基準としてこれから行われようとしている学力テストを使おうとしているわけなのです。なんとひどいことでしょう。学校間、自治体間も競争させられてしまいます。今まではどんな小さな学校でも最低の基準を満たすべく施設などありました。公のものだからです。それをテストの点が悪かったらやらないというのです。悪い学校は廃校になってしまいます。民間委託に追い込まれるでしょう。まさにお金は出さない小さな政府、どの子も学力をつけていこう、人格の形成という公教育はそこにはありません。
   東京都が先取りでもうすでに3年です。いろいろな弊害が言われています。親は学校を自由に選べて良いように思われますが、基準がパーパーテストだけです。それによって親は選ばなければなりません。どうしても学校への学力への個々バラバラな注文が多くなり教師は汲々しているそうです。東京都ではすでに教師になる学生が少なくなっていると東京の大学の教授が述べていました。また、新入生のない学校も現れたということです。子どものいない地域はゴッドタウンみたいで不審者は出るはで、地域が沈没するようだと地域の人が述べているのをテレビで放映していました。イギリスではすでに見直しがされようとしているのを何で今更、と言いたくなります。
不安定な職業にすることによって、よい教師は生まれるの?
   さらに、国民の教師批判を取り入れ、公教育破壊のセットとして教員評価を新しく導入しました。私達も勤務評定はされていましたが、組合などの運動により実質評価は生きていませんでした。それを新たに効果あるものにする評定が導入されました。今の給料全体を増やさないで多い少ないと差をつけます。
   10年ごとに免許更新制も言われています。教師という仕事も10年度の更新のために途中でリストラにあうような不安定な職業になります。さらに人格の形成者として使命に燃えたことをしても上司に評価されないとだめです。結局上司である校長などの顔色を伺うことになります。教師になるのはいやだという学生も多くなるでしょう。よい人材が集まり育つはずがありません。国民が願った「悪い教師」を首にすることはこんな形で実現してしまいます。
   教育は「商品」でそれを扱うのが教師で、顧客は「親」で投資した子どもへの見返りが「学校がつぶれる」では割があいませんネ。教育に市場至上主義は合いません。学力テストでよい点をとるという「成果」を競わさせられる教師は、崇高な使命を持っていた前の教育基本法とまるで違う仕事になってしまいました。教育は内容を教えるだけでなく、子どもとのコミュニケーションで人格形成にとってとても大切なものなのです。商品化は人間の内面を大切にしないものです。
国の新たな教育統制
   お金は出さないのに、第3のねらいとしてこの際、国・文部科学省による教育の管理と統制の新たな仕組みを確立します。国が計画(プランP)→実行(ドウD)→点検・評価(チェックC)→改善(アクションA)を握ることで、少ない予算で強力に管理するのです。学力テストは点検・評価に当たります。PDCAサイクルと呼ばれる仕組みを作りました。各学校での地域に根ざした独自の取り組みなど入る余地はありません。私は校長をしていた友達がいるので、どれだけ校長達が教育委員会などのロボットとして身を粉にして一言一句違わないように身をすり減らしているかがよくわかります。だからこのような仕組みが新たに作られたら校長になる人も少なくなるのではないかと思います。現に先取りが行われている東京都はそうであるそうです。国は地方分権と言って金を出さないのに、教育だけ微々に渡って統制するのはわけがありそうですね。
   つまり政府が行おうとしている学力テストは子どもの学力を伸ばすためのものではありません。国際競争にうち勝つ3㌫の優秀な人材さえ確保できたらいいのです。ほかの子どもは国に命を捧げる実直な心をもっていてくれたらいいのです。「愛国心」を評価するということが教育再生会議で言われています。先取りですでに全国で評価させている通知簿がありましたネ。政府というお国のためにのみ命を捧げる「愛国心」は大事です。アメリカさんの「つっつき」がひどいのでね、それで今回特に憲法第9条を変えて戦争をする国にしようという話が進んでいるのですよ。最近私は政府というものは、何かのきっかけでこじつけて私達が願う内容と違うものに変えていくものだなあ、とつくづく思っている次第です。教育が大事だからこそ国は規制緩和しても、国のいうように動く人間づくりをねらっているのです。
日本の旧教育基本法を手本に、学力世界一はフィンランド
  ちなみに全体的に上位だったのはフィンランド。読解力と科学で1位。韓国とともに四分野すべてで1位グループに入りました。フィンランドは日本で言うような意味での受験のための教育熱心な国ではない。注目すべきはこのフィンランドは1990年代に日本の教育学者を招き、日本の旧「教育基本法」の精神を勉強して取り入れられたということです。ところが日本ではそれを昨年に強行採決で変えました。給食費滞納の問題のように、日本国民は問題が起きると本質を見極めると論議よりも、いつもなにか政府がやりたかったことを「この際のきっかけ」にすり替えられているような気がする。こんな感想を持つのは私だけでしょうか。このブログが考えるきっかけになれば幸いと思います。 K子  

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2007年4月16日 (月)

学力テストは子どものためになる?

  昔、40数年ほど前(1956年全国一斉学力テスト第1回目)、学力テストが実施された時期があった。テストの平均点をあげるため成績の悪い子は欠席するように促されたという伝説がある。弊害の方が多く、4年後に中止された。

再開のきっかけは、国際学習到達度調査で日本の子どもの学力低下
   ところが、そもそも、学力テストを子ども達に実施しようという話が再浮上したのは、2003年に実施された経済協力開発機構 (OECD)が行った国際学習到達度調査(PISA)の結果が悪かったというのにタンを発している。この調査は義務教育が終了した15歳を対象に、学んだ知識・技能を実生活でどの程度活用できるかを見るために経済協力機構(OECD)が実施し、ペーパーテストの結果で評価したものだ。2000年に第1回が始まった。
   2回目の調査で日本は「読解力 8位→14位」「数学応用力1位→6位」というように下がる結果になった。日本は加盟国41カ国中、もっとも低下が激しかった。特に「文章の意味の理解」や「記述式の問題」の成績が悪かった。また他国に比べ、生徒間の格差が大きかった。同時におこなった生徒への質問で「数学が楽しい」「興味がある」と答えた生徒がOECD平均より少なく、数学嫌いの生徒が多いということでした。
   そして安倍首相になって、教師によるいじめ自殺を契機にいじめ自殺問題が全国に波及し、悪い教師を辞めさせるよう、教育委員会の力を強めなければというテレビやそれに後押しされるように世間の目が教育問題にひきつけられた。問題の本質が何かを考える間もなく、あっという間に戦前の反省の上に作られた60歳の教育基本法が原因、とばかりに変えられた。学者や教師はそうでないと主張し、世間的には盛り上がることなく強行採決で変えられてしまった感がある。そして国民は、いじめと学力テストと教育基本法がどんな関係があるのかゆっくり考える間もなく、あれよ、あれよと言う間に安部政府の進める学力テストは「子どものためになる。」という気持ちにさせられている気がする。しかし、教職の現場にいた者としては「ちょっと違うな。」という気持ちなのです。学力の低下はずっと前から始まっていたのです。最近、私は何かのきっかけをネタに国民の願いとは別なものに変えられている危機感を持っています。

学力の低下は、30年も前から文部省の指導で始まった!
   ちょうど2003年、国際学習到達度調査の頃、日本の「ちまた」では子どもの学力の低下が言われ、大学生も高校の学習をしなければ大学の授業が進められないという事態も生んでいました。そこへの結果だったため、「学力低下」とセンセーショナルに新聞に報道されました。しかし現場の教師はやはり、と思ったのです。文部科学省はその対策として学力テストの再開を口にしました。まるで学力テストが子どもの学力をあげるために必要だと、ばかりの言い方に思われました。しかし、学力低下は30年前に「ゆとりと充実」という文部省が使い始めてから始まっていたのです。
   約30年前、ゆとり教育と充実の導入と言われた1977年度版の学習指導要領は80年から施行された。オイルショックの後のバブル景気の時代だ。事実上、教える内容は減らさず、「ゆとり」という時間が導入された。授業時間の削減、小学校1時間の授業は40分から45分になった。落ちこぼれは当然生まれるが「能力適性」という言葉が強調された。まだ若かった私は逆に教師も子どもも、ゆとりがなくなったのを覚えている。放課後、子どもと勉強する時間を見つけるのがやっとになってきた。

新学力観は「わからないのも個性」 大切なのは「意欲・関心・態度」
   教師に「こう教えなさい」と決めるのは文部省(現在の文部科学省)でそれが書いてあるのが学習指導要領です。法律的に教師の裁量で出来ません。学習指導要領は10年ごとに改訂される。 
   1989年度版の学習指導要領が92年から実施され、低学年で生活科(理科と社会が廃止、統合された教科)が新設、中学でも進路により選択教科がすべての教科に拡大され、どの子もきちんと受けなくてもよくなったという文部省(現 文部科学相)の方針が出た。重視となり、できないのも個性、今までみたいに詰め込みはだめ、「新学力観」と言われた。具体的には宿題を出してはいけない、今までのように放課後できない子を教えてはいけないとまで言われた。詰め込み時代も現場の教師は、わからない子にどんなことでもしてわからせようと、それなりに頑張るのが仕事だと思っていた。それを否定されたのだ。「意欲・関心・態度」を通知簿で評価するようになったが、子どもの心の中まで評価するのには本当に困った。今回「愛国心」の評価が言われているが、小泉元首相も困ると国会で答弁していたが、その先達を私達はすでにやらされていたというわけだ。週5日制月、1休みが導入された。問題児の生活指導や学年での話し合いやまとまりと言われていっそう会議が多くなった。放課後はほとんど子どもとの時間をとれなくなっていた。だんだんあきらめになってきた。
学力低下の真犯人は、薄い教科書と忙しい職場
 
その流れで10年後、1998年、実施は2002年から始まっています。経済は低成長期に入り、大企業が生き残りをかけて子ども達の教育を提案しました。3年生以上に「総合的な学習」という時間が設置された。その準備で逆に教師はとても忙しくなった。教科書の内容も3割削減なのに週休2日制になり、総時間数が週休前のままで朝の時間まで子どもは、学習時間として学ばなければならない余裕のなさになった。内容削減で有名なのが円周率を3と教えるということである。学年到達目標は学年層目標となった。ややこしいのが漢字は読めると書けるが一致しなくてもいいということだ。それよりも「生きる力」が大切と強調された。
   現場では実施される前にカリキュラムを組んだりして先取りをするので、施行される前からすでに子どもの学力はいっそう落ちるのは目に見えている、と教師仲間でささやきあっていました。だからすぐ学習指導要領は手直しされるだろうと思っていました。
   「ゆとり教育」と言われて30年、現場は個人の裁量は許されないで、放課後、会議ばかりで子どもとの時間はとれないのは当然になってきました。不審者が出たりして子どもは集団下校させて、教師が見回りをするようになったり、忙しさだけがいっそう加速され、仕事の遅い教師はだめのような雰囲気さえできてきた。土曜日がなくなったかわりに一緒に食事をすることもなく、教師間の親密感も薄くなっていったのが実状です。普段の日の仕事が過密になり、土・日はグッタリとなります。

  ゆとりと長年言っておきながら、今度は学力テストで「切磋琢磨」で競争しないと力がつかないと言い出しました。長年教師をやってきた者にとって、文部科学省の指導の結果が学力低下であると思うのに、そんなことは全く眼中にない、いきあたりバッタリのようにみえて腹が立ちますネ。ところで再開される学力テストは子どもにためになるのでしょうか、それは次回へ。                    K子

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