「子どもを虐待する鬼母」への思い
いじめと同様に子ども、特に親の幼い子どもへの虐待が報じられる毎日だ。
「偏差値教育の輪切り」による被害者である世代
ある日、新聞を読んでいてふと気づいた。大きな事件で、わが子を虐待する鬼たる母親の年齢が、自分の娘と変わらないと・・・。そして30代前半である彼ら・彼女達の中学校時代はまさに偏差値イコール人格の時代であったということを思い出した。学校で試験の度に「偏差値一覧表と自分の子どもの順位」を示したプリントが保護者に配られた。高校はその偏差値という輪切りで決められた。それまで見た目でしかわからなかったが、進学した高校を見て「あの子は見た目ほど賢くなかったんや。アホやったんか。」と思い知らされる現実であった。テストの点数で人格をみることを否定していた私でさえ、そう思わされるほどだった。中学校の教師はパソコンの画面で点数ばかりをながめていたら本気でそう錯覚させられるだろうと思われた。
80年代の荒れは偏差値でなく、自分の存在を認めてほしいという子どもの思いを背景にしていた。しかし学校は個人の人格を否定する微細に渡った息つまるほどのきまりと、暴力による管理に頼った。そんななか、1990年、神戸市の高塚高校の門扉で殺された事件は起きたのだ。日常に渡って教師は暴力団のような体罰を行った。教師によるいじめであった。成績の悪い子は何をしても体罰をされた。私の身近にも怖くて学校へいけない子、登校拒否が見られるようになった。そのため子ども同士の、教師の気づかないいじめがたくさんあった。そのための登校拒否も多かった。親はわが子の成績が悪いから、わが子が悪いから仕方ないとあきらめた。
私の子育ての中で、特に学校との関係で、どの子も中学時代がいちばん息をひそめるくらい困難をきわめた。そんな中学生活を送り、中学卒、また高校中退をせざるをえなかった子ども達の背負った心の中のトラウマを教師は、知っているだろうか。当時甘えることよりも親からは成績ばかりを気にさせられた子ども達は、学校によっていっそう自己肯定感を持てないようにされ、そのまま社会に出ていった。それがどんなことになるのか、あいつぐ子どもへの虐待をみて改めて気づかされた。
企業の働き方の変換の被害者たる世代
80年生まれの末息子の時代になると学校は急に「偏差値」を否定し始めた。あまりにも過激な偏差値教育に世間の目の批判が出たこともある。偏差値一辺倒では企業にとって力になりえないこともわかってきた。だからボランティアなど表向きの態度を評価し始めた。現実には偏差値はずっと生きている。よい大学を選ぶ企業の体質は変わっていないから。3㌫のエリートでよいのだから。すでに反抗する勢いのある子はなくなったという学校側の話を思い出した。陰湿ないじめの時代に突入ということであろう。
95年、企業が働き方を転換する方針を出した。新自由主義による規制緩和がいっそうはっきりしてくる。中高年はリストラで、若者の正社員は減らされ、派遣、請負という働き方しかできなくなる。私の娘と同じ30代のこの子らが働き始める頃が、就職の氷河期、超氷河期と言われる頃であり、06年の今に向かって働き方の無法は常態化してしまっている。しわよせはいつも弱い人々にくる。傷ついた心を背負った中学卒、高校中退の子ども達は、今は若い親達となって不安定な就労状況で働くのに必死である。また心理学からも自己肯定感のない人が、子どもとよい関係の子育てをできることは困難をきわめやすい。ましてや子育てが、個人に任される時代になっては、いっそう困難であることは想像できないことでない。秋田の事件の加害者の中学時代の「すさましいいじめ」の話を聞いて、彼女を責めることだけですむことでないと思った。
人は教育によって人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知る。
経済からみた教育の効果は、人を「機械への投資」と同じとみることであるが、人は教育によって例えば、動機付け、指導力、協調性という社会生活・人間生活に大切なことも学ぶ。家庭生活、社会生活の場において、善良な市民として生きていくための精神、しつけ、規則などを学んでいく。平和、自由の尊さ、民主主義の意義、他人を慈しむことの尊さなども学ぶ。人格の完成と言われるゆえんである。だから発展途上国の労働者は、経済学の面から言っても使いにくいそうだ。
ところが彼らの育った中学生活は果たしてそんなものを育てたであろうか。まさにテストによる競争、選別と管理のなかで、自己肯定感のない大人となり、劣悪な就労状況におかれ、子育て世代となった子ども達でないか。そんな彼らの子育ての様子をある教師が、「豊かであったはずの日本で、まるで発展途上国の子ども達をみる思いがする」と述べられた。まさに彼ら・彼女達はがんばる心、慈しむ心、善良な市民のモラル、いや人間としての精神さえ崩壊するまでに、社会の中でストレスに追いつめられてはしないか。それが多発する親による虐待を生んでやしないか。
教育は人格の完成と教育基本法が謳うように、人は教育によって、人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知るのである。それが戦後だんだん、そしてますます企業のための人材教育となったため、いじめや虐待が多発するのである。格差社会が日本に生まれつつあるのは現実だ。しかし今だって遅くない。お仕着せでない、自分自身の考え方の核を持つことができたなら、世の中の荒波の飲まれることなく、自信を持って生きていけるにちがいない。またそういう教育を現場で行わなければならない。教師が自主的に創意工夫的な実践をする、専門家としての資質や能力を発揮できる学校づくりが必要なのだ。教師が相互に率直に批判でき、学びあえる学校、そういう民主的な基盤を学校に確立することこそ行政は支援をしなければならない。教師の免許を更新制にしたり、教師の勤務評定で給料に差をつけたりしても決して改善しない。悪くなるばかりだ。
教育基本法改正法案が強行採決された。いや改悪だ。学力テストが導入されるとどういうことになるのか知っている人も多いはずだ。今よりよくなるどころが悪くなるのは目にみえている。 K子
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)



最近のコメント