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2006年11月20日 (月)

「子どもを虐待する鬼母」への思い

  いじめと同様に子ども、特に親の幼い子どもへの虐待が報じられる毎日だ。

「偏差値教育の輪切り」による被害者である世代
  ある日、新聞を読んでいてふと気づいた。大きな事件で、わが子を虐待する鬼たる母親の年齢が、自分の娘と変わらないと・・・。そして30代前半である彼ら・彼女達の中学校時代はまさに偏差値イコール人格の時代であったということを思い出した。学校で試験の度に「偏差値一覧表と自分の子どもの順位」を示したプリントが保護者に配られた。高校はその偏差値という輪切りで決められた。それまで見た目でしかわからなかったが、進学した高校を見て「あの子は見た目ほど賢くなかったんや。アホやったんか。」と思い知らされる現実であった。テストの点数で人格をみることを否定していた私でさえ、そう思わされるほどだった。中学校の教師はパソコンの画面で点数ばかりをながめていたら本気でそう錯覚させられるだろうと思われた。

  80年代の荒れは偏差値でなく、自分の存在を認めてほしいという子どもの思いを背景にしていた。しかし学校は個人の人格を否定する微細に渡った息つまるほどのきまりと、暴力による管理に頼った。そんななか、1990年、神戸市の高塚高校の門扉で殺された事件は起きたのだ。日常に渡って教師は暴力団のような体罰を行った。教師によるいじめであった。成績の悪い子は何をしても体罰をされた。私の身近にも怖くて学校へいけない子、登校拒否が見られるようになった。そのため子ども同士の、教師の気づかないいじめがたくさんあった。そのための登校拒否も多かった。親はわが子の成績が悪いから、わが子が悪いから仕方ないとあきらめた。

  私の子育ての中で、特に学校との関係で、どの子も中学時代がいちばん息をひそめるくらい困難をきわめた。そんな中学生活を送り、中学卒、また高校中退をせざるをえなかった子ども達の背負った心の中のトラウマを教師は、知っているだろうか。当時甘えることよりも親からは成績ばかりを気にさせられた子ども達は、学校によっていっそう自己肯定感を持てないようにされ、そのまま社会に出ていった。それがどんなことになるのか、あいつぐ子どもへの虐待をみて改めて気づかされた。

企業の働き方の変換の被害者たる世代
  80年生まれの末息子の時代になると学校は急に「偏差値」を否定し始めた。あまりにも過激な偏差値教育に世間の目の批判が出たこともある。偏差値一辺倒では企業にとって力になりえないこともわかってきた。だからボランティアなど表向きの態度を評価し始めた。現実には偏差値はずっと生きている。よい大学を選ぶ企業の体質は変わっていないから。3㌫のエリートでよいのだから。すでに反抗する勢いのある子はなくなったという学校側の話を思い出した。陰湿ないじめの時代に突入ということであろう。

  95年、企業が働き方を転換する方針を出した。新自由主義による規制緩和がいっそうはっきりしてくる。中高年はリストラで、若者の正社員は減らされ、派遣、請負という働き方しかできなくなる。私の娘と同じ30代のこの子らが働き始める頃が、就職の氷河期、超氷河期と言われる頃であり、06年の今に向かって働き方の無法は常態化してしまっている。しわよせはいつも弱い人々にくる。傷ついた心を背負った中学卒、高校中退の子ども達は、今は若い親達となって不安定な就労状況で働くのに必死である。また心理学からも自己肯定感のない人が、子どもとよい関係の子育てをできることは困難をきわめやすい。ましてや子育てが、個人に任される時代になっては、いっそう困難であることは想像できないことでない。秋田の事件の加害者の中学時代の「すさましいいじめ」の話を聞いて、彼女を責めることだけですむことでないと思った。

人は教育によって人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知る。
  経済からみた教育の効果は、人を「機械への投資」と同じとみることであるが、人は教育によって例えば、動機付け、指導力、協調性という社会生活・人間生活に大切なことも学ぶ。家庭生活、社会生活の場において、善良な市民として生きていくための精神、しつけ、規則などを学んでいく。平和、自由の尊さ、民主主義の意義、他人を慈しむことの尊さなども学ぶ。人格の完成と言われるゆえんである。だから発展途上国の労働者は、経済学の面から言っても使いにくいそうだ。

  ところが彼らの育った中学生活は果たしてそんなものを育てたであろうか。まさにテストによる競争、選別と管理のなかで、自己肯定感のない大人となり、劣悪な就労状況におかれ、子育て世代となった子ども達でないか。そんな彼らの子育ての様子をある教師が、「豊かであったはずの日本で、まるで発展途上国の子ども達をみる思いがする」と述べられた。まさに彼ら・彼女達はがんばる心、慈しむ心、善良な市民のモラル、いや人間としての精神さえ崩壊するまでに、社会の中でストレスに追いつめられてはしないか。それが多発する親による虐待を生んでやしないか。

  教育は人格の完成と教育基本法が謳うように、人は教育によって、人間生活のあるべき姿を学び、社会の一員としての基本を知るのである。それが戦後だんだん、そしてますます企業のための人材教育となったため、いじめや虐待が多発するのである。格差社会が日本に生まれつつあるのは現実だ。しかし今だって遅くない。お仕着せでない、自分自身の考え方の核を持つことができたなら、世の中の荒波の飲まれることなく、自信を持って生きていけるにちがいない。またそういう教育を現場で行わなければならない。教師が自主的に創意工夫的な実践をする、専門家としての資質や能力を発揮できる学校づくりが必要なのだ。教師が相互に率直に批判でき、学びあえる学校、そういう民主的な基盤を学校に確立することこそ行政は支援をしなければならない。教師の免許を更新制にしたり、教師の勤務評定で給料に差をつけたりしても決して改善しない。悪くなるばかりだ。

  教育基本法改正法案が強行採決された。いや改悪だ。学力テストが導入されるとどういうことになるのか知っている人も多いはずだ。今よりよくなるどころが悪くなるのは目にみえている。   K子

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2006年11月14日 (火)

イマジン・想像力

  新聞に、小泉元首相が「政治家は使い捨てである」と言ったことが載っていた。ならば大企業のための教育の手先の先端にいるのが使い捨ての校長である。いじめ問題や未履修校長はロボットどころか、政府の教育方針を忠実に遂行するために派遣されたマシンと思わなければやっていけないだろう。権力の先端にいる小泉元首相は使い捨てと割り切り、国民の批判というストレスで潰されそうになりながら、アメリカと大企業の要求の実現に頑張った。テレビで、家に戻れば普通の父親である、と息子の光太郎君が笑って述べていた。

  そこでいつも私は、誰が悪いのかと悩む。

  年金を減らし、病院にかかる負担を増やしたら、老人はどうなるのか、国民の具体的な事実、状況や教育への「成果指数・数値目標」導入するとどうなるかどうしてわからないの?この施策がどんなに国民に非人間的なことを強いるのかを察することができたら、行うことができないであろう。そこに自分の立場や地位を守るのか、人間としてできないというヒューマニズムに立脚したイマジンが働くかどうかで分かれるのかな?と悩む。心理学を学習してからわかるようになったのだけど、ヒューマニズムとしてのイマジンは生い立ちからくる人格も関係することもわかってきた。環境としての生育歴や教育が、国民を不幸にすると見通せる人格の分かれ道かな。夫に言わせれば「あんたは甘い!」悩むところでないところで悩むそうだ。  K子

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現場ゆがめた数値目標

  企業に成果主義が持ち込まれて、しかしいろいろな問題が出ているのに、新自由主義の規制緩和は残るところ、とうとう、教育の現場にまで持ち込まれてきた。教育に競争によって勝ち残るという市場主義はなじまないと言われているのに・・・である。もうすでにその先取りは行われている。後は国会で法による強制を始めようとしている。

  福岡県では07年までに「いじめの根絶」、つまりいじめゼロを「成果指標・数値目標」に揚げ、市町村教育委員会を指導してきた。高校の世界史単位未履修問題であってもそうだ。「教育臨調」で公教育の規制を緩和し、よい大学にたくさん入学させた数を数値化し、教育に市場主義を持ち込み、学校格差を作り出してきたのが政府自身だった。政府自身のあいまいさがある。私学に比べ、自由のきかない公立学校では週5日制のため授業時間を減らさざるをえなかった事情もある。世界史未履修をせざるを得なかった子ども達こそ、教育基本法のいう「人格の完成」をめざす教育権を奪われたというべきであろう。

  私達が、「教育をよい大学には入り、人生が約束されるというために」、また企業が「企業の人材であるための教育」であるかぎり、そういうことはあり得たのだ。ところが政府は自分の責任を棚にあげている。校長先生がたくさん自殺されているのに心が痛む。未履修やいじめ問題を利用して教育基本法を改悪しようとされないか心配である。また教育委員会の支配がもっと強くなることを恐れる。  K子

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2006年11月 1日 (水)

いじめを生む土壌は?

 私達の子ども時代も昔からいじめはあった。しかし集団で、長期に渡ってそして、誰も味方になってくれないという人間の尊厳を踏みにじられるようないじめはなかった。そして自殺にまで追いやられるまで、まわりのおとなも気づかないという人間関係の希薄さもなかった。どこかで誰かに助けられていた。

自分の存在価値が「数値」や「順位」でしか確認できなくなっている社会
   これほどまでにいじめを生む土壌は、おとなが作った環境にある。学校は点数、偏差値、順位などで容赦なく子どもとランクづけする。小学校1年生も1学期が過ぎればどの子もテストの恐ろしさに目覚める。通知簿をもらう時の騒然とした緊張感に教師である私はタジタジとさせられたものだ。高学年ともなればもう自分の相対的な位置がわかる。「僕の10年後の姿は、安いアパートでラーメンすすっている。」と自嘲気に言った5年男子は今どうしているだろうか。                 
 よい大学がよい企業に就職でき一生が保証される時代があった。1990年代に企業が3㌫のエリートだけでよいと方向転換しても、いやそれゆえ世の風潮は、選別社会にいっそうかりたてられている。早期教育は英語がトップとなっている。そのため今の子どもは、いっそうそうした選別社会で自分の存在価値が「数値」や「順位」でしか確認できなくなっている。何点か、何位か、あの子に勝ったか、負けたかという基準でしか人としての存在感が味わえなくなっている。教師もまた点数が悪い子は人格も悪いような錯覚に陥らされる。親もまた成績でしか子どもをみる視点を持たなくなっている。「あんたのためや」という押しつけである。現在社会は、家庭も学校も同じ価値で子どもを追いつめている社会なのです。

存在価値を求める衝動を持つのが人間 
 その結果、子どもは自分の相対的な存在価値を高めていくために、自分より劣る者、ランクの低い者を見つけだしてそれを見下し、さげすむ行動に出ます。相対的に自分より「できない、下手、遅い、弱い」子を見つけ、いじめることによって自分の存在価値を確認するのです。十分に集団で遊ぶことを知らない子ども達はコミュニケーション力が上手でない。うまく場の空気が読めない子がいたら、それを言葉で告げないでいらだちます。強く反撃できない子がいたら、自分のいらだちを発散させます。それがいじめの土壌なのです。心理学的にも人間というものは唯一「存在の意味」を求める衝動を持つ生き物なのです。だから成績の順位という価値にだけ「存在の意味」を縛ることが異常なのです。

「学校評価」「教師評価」という成果主義が現場の教師をいっそう荒廃させる
   新自由主義の規制緩和は、残るは教育の分野です。すでに学校現場では先取りは行われています。東京都はその最先端をいっています。学力テストが悪い学校はつぶされていきます。公立学校が、つぶされるのですよ。そのために子どもは今よりいっそうストレスがたまるのは想像できるでしょう?全国で小泉さんも認めた「愛国心を評価して通知簿につける」という無茶さがすでに行われています。

  福岡県では成果指標・数値目標として「いじめの件数を減らすという目標をたてました。そのもとで市町村教育委員会は指導してきました。そうなると教師はいじめをあかせば「ダメ教師」になります。そうでなくても学校というところは問題児童を出す教師をダメという雰囲気があります。私が低学年からのいじめを告発した時、校長は「女の先生が高学年を持つといじめが生まれる。」と言ってはばかりませんでした。だから年齢がいくほど学級に問題があっても周りの教師に正直の自分の気持ちが言えなくなります。そういう現場に、政府が「いじめは許せない、教師がそのメッセージを読みとろう」といじめをなくする目標をたて、数値にしてけしかけるほど現場は萎縮していくのです。ましてや給料に影響するとはなおさらです。

 週刊誌ではすでに「我が子のダメ教師の見分け方」という見出しさえ出ています。親もまたそれに振り回されない目が必要です。その目標をたてさせた政府はその責任に口をとざしているのに気づこうではありませんか。

教育基本法と憲法のいう教育の目標の実施へ
  企業の要請にあう人材づくりの教育であってはなってはならない。教育基本法のいうように人格の完成をめざし、個人の尊厳を重んじ、どの子も学力をつける教育が行われていればこういうことは起こらない。教育基本法10条のように行政は教師が横の関係を作り、論議していじめをなくすのに必要な諸条件の整備確立を目標にしなければならない。いちど、憲法、教育基本法を読んでみてください。教育基本法や憲法を変えてはだめだ、とお思いでしょう。弱い者へうっぷんをもっていくのでなく、きちんと実施していくように私達国民が国にせまることなのです。
     K子

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