「3才までは、たたかないとわからない」を子どもの権利条約から考える
多くの大人は「子どもはたたかないとわからない」と体罰を肯定する。私の夫も「親父によく殴られた。」と言う。だが恨んでいる様子はない。殴られたけれども一緒に山や海に連れていってくれた楽しい思い出も多くあるようだ。このような「体罰」肯定の背景に子どもは「未熟」であり、「本能的な欲求」が強い。だから躾によって社会化することが必要だ。だからたたいてでも、大人に従うようにしないと社会に出て大変なことになる、特に言葉の通じない3歳まではたたかないとわからないという日本の伝統的な親心だと思う。日本のスポーツの世界にもある。また今問題になっている躾と称する子どもの虐待の温床と根は同じであると私は思う。
近代の市民革命以来大人の男子に、次は大人の女子に個人の尊厳(独立した理性的存在、自己決定、自己責任)の前提として自由権・プライバシー権などの権利の主体行使、すなわちかけがいのない「個人の価値を持った社会的存在主体」を認められてきた。それが人権として市民権を得ている現在、大人になるために「3歳まではたたかないとわからない」は肯定されてよいのだろうか。日本で子どもの権利条約が批准されてもまだ日も浅い現状の中で考えてみたい。
現在の心理学は、一人前でない子どもが世界でたった一人のかけがえのない価値を持った人間」として扱われ、自律的・社会的主体へ向けてきちんと成長するためには、「ありのままの自分を受けいれてくれる人間関係が不可欠である」ことを明らかにしている。
「ありのままの自分」を受けいれてくれる人間関係とは、子どもが発する欲求(思いや願いや意見。泣いたり、だだこねたり、悪さをしたりといったさまざまな行動)に対して無条件にかつ持続的に「そうだったんだ、そうしたかったの、大変だったね」など言って肯定的かつ誠実に対応してくれる親や教師など身近な人との関係をいう。
しかし、たたかないで3歳児でもわからせることができるのだろうか。できる。
幼児期は言葉が未熟で自分の思いを大人に伝えることができない。そのためわがままや悪さにみえても大人はその思いを読みとって、対処しなければならない。つまり、大人視線でなく子ども目線に寄り添って「そうしたかったの?」とダダをこねている幼児が幼児なりに自分の心と折り合いをつけるまで待ってやる。常に待って、誠実に対応してくれる人間関係を体験してはじめて、子どもは泣いたり笑ったりして「ここにいていいんだ」という安心感や「自分は大切なんだ」という自己肯定感を持てるようになる。これが社会で一人前の人間として生きていくための必要な力、・・・何かに興味を持ってやってみたいという自信、ほかの人の気持ちがわかる共感、ほかの人にために何かをしようとする道徳性、自分のやったことに責任を持つ力など自分らしい考えや思いを持ち、行動する力を生み出す。
振り返って最近の少年事件をみていると勉強ができてよい子は、実は自分を押し殺して生きている子なのだとみえてきませんか。本音でダダをこねるどころか、親の願いに自分を合わせて生きてきた少年達!ありのままの自分を受けいれられなくなっている人間関係のなかで、孤独と絶望の中で苦しんでいる。勉強はできても人とコミニュニケーションがとれない。共感する力がない。自分のした行動の大変さが見通せない。苦しいのを身近な大人に自分の方に顔を向けてもらう意見表明する力さえない。そういう人間関係をつくる力さえ発達させられてないのだ。自分らしく生きるためには「破壊」しかないほど追いつめられているのに、親も教師も気がつかない。また暴行という虐待が増え続ける背景に、劣悪な仕事の環境で大人の働く権利が侵されている。ダダをこねながら幼児なりに自分の心と折り合いをつけるまで待って、誠実に対応してくれる人間関係を体験させる心の余裕を大人が持てない。躾と称した八つ当たりの悲惨な体罰が横行する。人間として大切にされていない大人がイライラしてより弱い者へ躾と称して暴力を振るう構図がみえませんか。そこに大人の都合が見えてきませんか。
いや、昔はそれでもうまくいったのになぜ躾と称する「たたく」のを否定するのか?
昔はたたかれて傷ついても心を回復する場がたくさんあった。親身になってくれる近所の人や友達がいた。そして時間はゆっくり流れ、自然はいっぱいあった。それがみんななくなった現在、子どもは親に見捨てられては生きていけない。
昔も今も体罰は、子どもの心を傷つける。子どもにとって痛みや恨みは残っても、なぜたたかれたかという理由はわかっていない。大人は自分の感情でたたいている。たえまない体罰は人格の発達を妨げる。また教育的体罰などありえない。古い時代の産物だ。
3歳児であっても幼児のダダをこねる心に寄り添い、共感しながら自分の心と折り合いをつけるのを待つ大人の余裕は、子どもの発達を保障する人権を見通した大人の責任である。
K子
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コメント
無条件にかつ持続的に「そうだったんだ、そうしたかったの、大変だったね」など言って肯定的かつ誠実に対応してくれる親や教師など身近な人との関係をいう。
そうだったんですか。。。ものすごく参考になりました。
2才の息子のだだこねに、ほとほと手をやいていて、手をあげることこそないものの、大声でしかってばかり。どうすればいいのやらと、悩んでいたところです。
今日からがんばって、みます。
投稿: とり | 2006年8月11日 (金) 09時57分